西端真矢

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新聞社会面の珍ニュースから読みとる、明治・大正の暮らし 2017/06/21



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何回かこのブログで書いたので覚えて頂いているかも知れませんが、3年前、本の執筆準備を始めた時、日々ひたすら図書館に通って明治末から大正時代にかけての新聞縮刷版に目を通してた時期がありました。今日の日記ではその中で見つけた面白ニュースをご紹介したいと思います。
(写真は、気になる事実を資料として保管するために、私がコピーして持ち帰ったもの)

そもそも日清日露の戦い後から関東大震災頃までのこの時代、全貌がつかみにくいと思う方が多いのではないでしょうか。「富国強兵に邁進した明治初期・中期」「暗黒の昭和戦前時代」のように、一言で言い表すことが難しい時期です。大正デモクラシーと言いながら思想弾圧も厳しく、軍が強いかと思えば軍縮で退潮気味。政党が乱立して何が何だか頭がこんがらかるし‥
そんなこの時代を理解するために、もちろん、解説本的なものを読むのも良いのですが、ふと、新聞の社会面、いわゆる三面記事を読んでみたらどうだろうと思いつきました。何しろそれは当時の生の情報を、ほぼ客観的に伝えているタイムカプセルなのです。読み続ければおのずと、当時の時代の空気が肌に染み込んで来るのでは、と思ったのでした。
     
今とは違う「松竹」の読み方。東京は臭かった?驚きの連続

さて、こうしてひたすら新聞を読み始めると、意外な事実に驚かされることばかりでした。
その第一は、有名会社の名称や所在地が今とは全く違うこと。
幾つか例を挙げると、例えば、映画や歌舞伎の「松竹」。これが明治時代には、何と「まつたけ」と呼んでいたようなのです。まさか、と思いましたが、新聞紙面にわざわざ「まつたけ」とルビが降ってあったので間違いありません。いつから「しょうちく」に変わったのかは不明ですが、たしかに「まつたけ」では、何か下町の八百屋さんのようです‥
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それから、伊勢丹。伊勢丹と言えば今の私たちには新宿しか思い浮かびようがありませんが、当時は、「神田明神下、伊勢丹」が決まり文句で広告にも掲げています。つまりは、当時の人にとっては、伊勢丹と聞けば、ぱっとお茶の水のあの辺りの風景が思い浮かんでいたということ。新聞を読んでいると次々とこういった意外な事実に行き当たります。
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そんな中でも特に意外だったのが、東京の「匂い」のこと。大正時代の東京と言えば、カフェーが誕生してモボモガが闊歩し、着物ファッションでは、華やかな銘仙や耳かくしの髪型が流行して、和洋折衷。心惹かれる人も多い時代のはずです‥が、何と、その頃の夏の東京は臭かったようなのです。
大正9年6月のことですが、それほどの雨量でもないのに、下水が氾濫。浅草や下谷から小石川、それから赤坂の溜池の辺りに泥の筋が方々に流れてひどい臭気だと報じられています。欧米では、一人でもチフスが出たら国の恥とされているのに、日本では年間6百人も7百人も出ている、と問題提起する記事も。
その原因は、人口の急増でした。明治維新後、急に人が増えたことで、東京ではゴミ処理も下水の整備も追いついていない。川にゴミを捨てる人も多いから、夏の東京は臭い、と嘆くコラムもあります。モボモガの歩く銀座は臭かったのか、不良少女が活躍する川端康成の「浅草紅団」は好きな小説ですが、あれもドブ川の臭いを加えながら読まなければいけないのか‥と衝撃ですが、これこそ、客観報道だからこそ知ることの出来る事実。「清潔好きの日本人」というのも、意外とここ数10年に出来上がった神話なのかもしれない、と思い知らされます。そう言えば、この頃書かれた夏目漱石の『三四郎』でも、電車の窓から食べ終えた弁当箱をポイっと捨てる場面がありました。

ケンカっ早かった明治・大正の東京人

さて、三面記事を系統的に読んで行くと、繰り返し目につく事実、というものが出て来ます。その一つが、ケンカがとても多いなということ。東京、それも浅草・下谷辺りの下町では、ほぼ毎日のように人目を引くようなケンカが起こり、「下谷区**町で、鳶職誰の誰助と大工何の何蔵がつかみ合いとなり、**署に連行された」といった数行ほどの記事が、短信コーナーに、毎日ばっちり名前ごと報道されています。
より大規模なケンカとなると、「浅草で大乱闘」のような題が付いて10行、20行の記事に。例えば、明治末の事件。浅草で職人二人が飲んでいたところ、隣りの席にやはり二人連れの職人らしき客が来たので、仲間意識からイキに「お隣りからです」と一皿奢ったところ、相手が特に感謝もせず当然のように食べた。奢った方の職人からすると、これがカチンと来た。すぐさまケンカを売り、最終的に店中をめちゃくちゃにする乱闘になって警察に連行されて‥確かに、怒る気持ちは分かりますが‥

頻出する性病治療の広告と、芸者にまつわる事件

このように、何かと血の気の多いこの時代、もう一つ驚かされるのが、性病治療をうたう薬や病院広告の多さです。これは、社会面や一面にはあまり掲載されず、中ほどの面に、やや人目を忍んで出すのが通例のようなのですが、それにしても「梅毒」「淋病」「早漏」「陰茎」と文字は毒々しく、フォントも大きいものが結構多い。良家の子女も新聞を読んでいたと思うのですが、こういうところは、ぽっと頬を赤らめてスルーしていたのだろうか、などと想像が膨らみます。
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こうした性病は、当時「花柳病」と呼ばれていました。今よりも花柳界が何倍も盛んだった時代、三面には芸者がらみのニュースも散見されます。
たとえば、明治45年、吉原の「紫」という芸者に入れあげて会社の金を横領した男がいました。その金を手にまた吉原の妓楼へ行って、しかし横領が露見することを悲観したのか、紫に心中しようと持ちかけたところ、もちろん、返事はノー。
「あんたが勝手に横領したんでしょう。知ったことじゃないわ」
くらい言ったのでしょう。男は逆上してその場で腹を切り、妓楼は阿鼻叫喚の騒ぎに…。
一方では、大正始め、しがない車夫、つまり人力車引きの男が、
「俺だって吉原で遊びたいやい!」
と思い詰めたのか、お大尽のふりをすることに。よっぽど演技が上手かったのでしょうか、吉原の芸者も店の主人もころっと騙されて、大豪遊。しかし、いざ支払いの段になって無一文と分かり、あえなく逮捕されています。「何よ、騙された!一生懸命お座敷つとめて損したわー!」と怒っている芸者衆や幇間の顔が見えるようですが‥一生一度の夢を見て、この俥引きは、留置場に入っても幸せだったのだろうなと想像します。

羊羹泥棒に、頬かむりの空き巣、乙女二人の心中。庶民が起こした小さな事件


さて、この頃、軍や政府の大規模な贈賄事件が世間を騒がす一方、庶民が引き起こした小さな事件も枚挙にいとまがありません。
例えば大正5年の、甘党泥棒。東京京橋区の菓子屋が羊羹の注文を受け、お客の家まで届けに行くことになりました。指定の住所の住宅に着くと、ちょうど家の前に家人がいたので手渡して帰ることに。お代は後からのつけ払い、家も分かっているので安心だ、ということで、後日集金に行くと、何とその家は空き家。つまり、空き家だと知っていて詐欺を思いついたのです。しかし、この犯人、こんな手の込んだことをしてまで、よっぽど羊羹が食べたかったのでしょうか‥
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大正14年には玉川上水で女の子二人の入水自殺がありました。
この二人は、ちよと鈴といういとこ同士。ちよはかなりの不良少女だったらしく、1年程前に家出して、カフェーの女給になった‥というところが時代を感じさせます。
そのカフェーで大学生の恋人が出来、ところがこの男に捨てられたため、夜をはかなんで自殺。しかし鈴が自殺した原因には思い当たることがないと書かれています。もしかしたら、家出をするような強い性格のいとこに引きずられ、女学生らしい、一種のヒステリー状態に陥ってしまったのかも知れません。
この乙女たち、花柄の錦紗の着物に羽織を着て、緋のしごき(太い腰紐のこと)でお互いを縛り合って死んでいたというのですから、何とも美しくはあるのですが‥
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そんな乙女の事件があるかと思えば、中年女性も負けてはいません。
これもやはり世相を表しているなと思うのですが、大正9年、第一世界大戦の軍需景気であぶく銭を手にした船成金の妻が、旦那の金をごっそり盗んで失踪していたり、はたまた、その少し前の大正5年には、巣鴨近辺で連続空き巣事件が発生。これが、頬かむりをして、いかにも髪結いのふりをして、各家庭に忍び込んで空き巣をしているのだそうです。なかなか知恵者の女泥棒。後追いの報道もなく、結局逃げおおせたようです。そして、この頃にはまだ家で島田や丸髷、或いは束髪に結うために?、髪結さんが出入りする時代だったのだなということも分かるのでした。
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一方、渋谷近辺では、家のポストに届けられた郵便物が何者かによって開封され、赤い字でひわいな文句を書きなぐられる…という事件が多発しています。郵便配達の局員が疑われ、解雇までされたのですが、警察の粘り強い捜査により捕まったのは、中学生。この郵便配達夫がちゃんと職場復帰出来たのかが気になります。それにしても、今も昔も、こうしたゆがんだ事件を引き起こす男性は変わらず存在するのですね。
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この事件では警察の捜査が成果を挙げましたが、時には失敗もあります。
大正5年、品川の一軒家で、四、五人の男が集まり違法賭博をしているという情報が。現行犯逮捕すべく現場にそっと近づいた刑事たち。かっこよく「御用だ!」と踏み込んでみると、四、五人どころか十七、八人も集まった大賭博でした。一瞬、え!と驚いているうちに、全員に逃げられてしまった‥という間抜けな顛末なのでした。

天皇崩御にともなう過剰報道と、皇居に集まった人々

さて、明治から大正へ、天皇の崩御によって年号が移って行く時、昭和天皇崩御の時がそうだったように、明治天皇の容態も連日大きく報道されていました。
思い起こせば、昭和63年には、新聞やテレビで昭和天皇の病状が「今日は下血有り」「体温は**度」などと連日細かく報じられ、たとえ天皇でなくとも誰でも、自分が下血したことなど人に知られたくないはず。こんな報道はしなくても良いのに…と憤慨したものですが、まさか現代よりももっと天皇への畏敬の念が強かった明治時代に、しかも「御大便」「御尿量」など言葉だけは麗しく、同じように天皇の容態を詳細に報道していたとは‥!これはかなりの驚きでした。
しかし、報道の媒体は、今とは違います。もちろん新聞でも報じているのですが、恐らく当時は、全戸が新聞を取るような習慣はなかったのでしょう。天皇の「御大便」「御尿量」情報は、日々、交番に貼り出されていました。
買い物帰りに、仕事帰りに、或いは子どもに見に行かせるなどして、そこで「今日の天子様の御大便」状況をチェックする。わりあいにシュールな状況です。交番だけではなく、電柱や、何と柳の木にまでも貼り出し、束髪の女性が柳の木の前で掲示に見入っている写真が添えられています。今ならスマホでニュースをチェックするところですが、柳の木…あまりにも面白かったので、この件は本の本文の中に取り入れてみました。
そして、天皇の快癒を祈って、全国からたくさんの人々が、当時は「宮城」と呼ばれていた皇居前に集まります。あまりの人出、しかも夏の盛りで倒れる人も出るだろうという心配に、横浜の貿易会社社長が義侠心を発揮。無料でサイダーを配ることにしました。
ところが不逞の輩がいて、サイダーだけせしめて遥拝もせず帰って行くのです。
「今は厳しくチェックしています!」
と、この貿易会社の社員がハキハキ取材に答える記事も。死の淵をさまよう明治天皇のすぐ足もとで、せこ過ぎるサイダーただ飲み…明治終わりの日本は、昭和の“がちがち皇国日本”とは違い、意外とゆるかったなのだなということが見えて来ます。一般的な歴史書では「乃木将軍が殉死」などと、一つインパクトのある深刻な事件が起きるとそれが時代の空気すべてだったようにとらえられがちですが、人間の暮らしは決して何か一つの思想や空気一色に塗りつぶされてしまう訳ではない、ということが、このような小さな事件の報道から看取されると思います。

太り過ぎ奥様の惨事、帯を締め直している間に2千万円置き引き事件

…とこうして振り返っていると、まだまだ一日中書き続けられるくらい様々な発見があったのですが、あまり長くなるのも何なので、最後に二件の珍ニュースをご紹介して幕を下ろすとしましょう。
一つは、大正5年、横浜市長宅で起こった珍事。
どうもここの奥様は相当にお太りだったようなのです。或る日、外出に出ようと人力車に乗り、車夫が渾身の力を込めて梶棒を持ち上げると…巨体に引きずられ、車はアッと逆さの尻もち状態に。おそらく車夫も梶棒からぽーんと放り出され、そして、巨体の奥様は敷石に頭を打ちつけて流血の騒ぎに…しかしこんな不名誉過ぎるニュースを新聞で報道しなくてもと思うのですが。

もう一つは、同じ大正5年、ある鉱山師が、事業に使うためだったのでしょうか、8千円を銀行で下ろした時のこと。当時、「広辞林」一冊の値段が3円20銭、公務員の初任給が70円ですから、8千円というのは2千万円ほどの大金です。こんな一世一代の金を下ろして、この鉱山師は緊張してしまったのでしょうか、帯を締め直そうと思いたちます。ささっとその場で締め直して、ふと見ると、横に置いていたはずの8千円が、ない!おそらくお金は鞄か何かに入れていたのだと思われますが、白昼堂々と盗まれてしまったのでした。
それにしても気になるのは、この鉱山師が銀行の真ん中で帯を締め直していることです。確かに男性の帯周りは女性に比べれば簡素で、すぐ締め直すことが出来ます。ほどいても腰紐を締めているのだから総てがはだけるわけでもありませんが‥しかし当時は、人前でくるっと回ったりなどして帯を締め直すことも、そう珍しくはないことだったのでしょうか?こんなことも、酔狂に三面記事を丹念に読まない限り、見つけようもない事実。つくづく、思い込みを捨てて、歴史学で言う「一次資料」に当たることの大切さを感じます。そう、明治、大正の日本を、人々は悲喜こもごも、精一杯生きていたのでした。

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