西端真矢

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マスクと人情、そして国家 2020/05/25



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ようやく首都圏の緊急事態宣言も解除されようとする今、この、誰も経験したことのなかった混乱と緊張の日々をともにして来たマスクを、一堂に並べてみている。
実は、この写真に写っているマスクは、すべて、友人から頂いたものだ。
3月上旬、全国でコロナウイルスの市中感染が加速化していた頃、ブログを書いた。我が家には、肺と脳に重度基礎疾患を持つ母がいて、感染させたらほぼ確実に死を免れない。だから、このコロナウイルス禍の中、私は最も厳しい条件を生きることになってしまった。その苦しい状況に同情を寄せてくれた日本のあちこちの町の友人、そして海外の友人が、次々とマスクを送って来てくれたのだった。

この中には、洋裁のプロの友人から頂いたマスクもある。現在、仕事としてマスク製作も請け負い大変多忙にもかかわらず、私には無料、「送りつけます!」と冗談めかして送って来てくれた。
それから、手先が器用な友人が、ちゃちゃっと手ぬぐいを縫って作ってくれたマスクもある。ちゃちゃっとと言っても裏側はガーゼになっている、素晴らしく快適なものだ。
また、写真の手前1枚目と2枚目のマスクは、広島の和裁工房「シルフィールド」の岡上誠さんから頂いた。おしゃれな上に、銀イオン抗菌という最先端の抗菌生地を使ったもので、市販されているものだ。その「試作段階のサンプル品だから、お金は取れないよ」と、断固として代金を受け取ってくださらなかった。
(シルフィードのマスクを購入されたい方は下記URLから)
https://www.akin-do.com/shop/products/list.php?category_id=2

       *
それから、ここには写っていないマスクもある。
香港の二人の友人から、「マスクを2,3箱送りたいから、真矢の住所教えて」とメールが来た。二人とも、日本語はそれほど出来ない。それでもふだんから近況をメールし合っているし、ブログの漢字を拾い読みして状況を察し、送ろうと思い立ってくれたようだった。

この二人からの申し出は、気持ちだけ、心からありがたく受け取って辞退した。
昨年来、香港の政治状況は大変厳しく、抗議活動を続ける市民に対して、香港政府が「覆面禁止令」を出したことを記憶している方も多いと思う。その数か月後、コロナウイルスが発生して、一転、香港政府は厳しく「マスク着用」を義務づけるという皮肉な成り行きになっているが、けれど、いつまた「覆面禁止令」が復活するとも限らない、とも思う。その時に、不織布マスクだけは、まだ1、2年は終息しないだろうこのコロナウイルスの感染予防の観点から、政府は禁止することは出来ないはずだ。
だから、不織布マスクは、友人たちが抗議デモに参加する際に身元を隠すための、命綱になるかも知れない。そう思うと、とてももらうことは出来ないと思った。どうか大切に、万が一の時のために家に保管しておいてほしい。私には、遠く離れた土地から私のことを思ってくれた、その友情だけで十分だった。

       *

最後に、手前から3枚目のマスクは、日本人の友人から届いた。
これは手作りの布マスクではなく不織布マスクで、真新しい60枚入りの一箱が送られて来た中の一枚だ。街中どこにもマスクがなく、毎朝、薬局の前に行列が出来、時には小競り合いさえ起こっていた頃のことだ。箱を開けるとぎっしり60枚、白いマスクが詰まっていて、夢かとさえ思った。
「地方に住む母が私にと送ってくれたものだけど、その母の許可も得て、大変な思いをしている西端さんに送ります」
そんな内容のメッセージが添えられていた。「人は本来、分かち合って生きるものだと思うから」ということも書かれていた。

‥‥これらの一枚一枚のマスクを受け取った日のことを思い返すと、今でも涙がこぼれそうになる。そして、ともすれば力尽きそうにもなった厳しい毎日を、再びしゃんと背筋を伸ばして暮らしていく気力を、彼らの友情が支えてくれことを思い出す。いつか、このコロナウイルスが終息した後も、このマスクたちは私の一生の宝物になるだろう。
       *
そして、ひるがえって、この国の政府のことを考える。
実は、一箱頂いた不織布マスク60枚の半分は、訪問介護ステーションに寄付することになった。このコロナ禍でも、いつもと変わらず母の定期診療に来てくれていた訪問介護ステーションの看護師さんに、或る日、マスクの調達はどうしていますか?と訊ねると、もうストックを使い果たして、国からの支給もまったくないとため息まじりに話してくれた内容に驚愕した。
「毎朝、私も含め、看護師、リハビリ療法士、事務職員、交代で薬局に並び、今日は3袋買えた!とか喜び合ってるんです」
その話を聞いて、これはもう絶対に寄付しなければいけない、と思った。世界でも最も高齢化が進んだこの国で、プロフェッショナルの助けなしには、我が家のような介護者家族の生活は成り立たない。だから、介護従事者は、日本社会を支える絶対に必要不可欠な大切な人材だ。

その彼らに、国から、一枚のマスクも届いていない!
このコロナ状況下、彼らは、一軒一軒、「自分の見ている高齢者さんに感染させないように」と神経をすり減らしながら担当の家を回り、リハビリや看護を行っている。それなのに、あろうことか、寒空の下、一般の人に混じって薬局に並ぶという新たな重荷を背負わされていた。先進国であるはずの日本で、こんなことが起こっていいのだろうか?
30枚の新品のマスクを渡すと、看護師さんは涙ぐんでいて、私も胸がいっぱいになってしまった。でも、ここは泣くところじゃない。怒るところなんだ、と、ぐっと唇をかみしめた。心の底から日本政府に対して怒りがこみ上げて来た。

       *

もちろん、今回の事態は、どこの国も経験したことのない未知の災厄だ。政府も、市民も、マニュアルのない新しいサバイバルゲームの中に突然放り込まれ、でも、だからこそ、個人であっても、政府であっても、その真価が浮き彫りにされたと思う。
あまりにも多くのことが起こったから、もう記憶が薄れかけてさえいるけれど、思い出してみれば、流行の初期、国民一人一人が肌感覚で「もうお願いだから、今は中国の人を入国させないでほしい」と、街を闊歩する中国人観光客に恐怖を感じていた。それなのにこの国の政府はずるずると、「もう本当にここまで来たら危ない」という瀬戸際まで、彼らを入国させ続けた。
家賃が払えなくなるかも知れない、従業員の給料を出せないかも知れない、そういう不安を抱える人が出始めていたにもかかわらず、国会議員の間では「和牛お肉券を配る」という、冗談としか思えない“救済案”が議論されていたことも思い出す。来月の資金繰り、数週間後の資金繰りに焦っている人々に、複雑極まりない手続きをしなければ支給されない給付金制度を始めようともしていた。
そして極めつきがあのアベノマスクだ。

私は、布マスクの配布自体は、100パーセント悪いアイディアだったとは思わない。
たとえば、今、無印良品が販売しているようなシンプルビューティーなマスク、或いは小池都知事のマスクのような、ちょっとしゃれた布を使ったマスクだったら、多くの国民が積極的に使ってみたいと思ったのではないだろうか。
日本は、昨日戦争に負けて、瓦礫と闇市の中から立ち上がろうとしているド貧乏な1945年の日本ではない。或いは、政府支給の物品を黙々と受け取る往年の共産主義国でもない。高度成長とバブル経済を経て、世界でも相当レベルのファッション大国、デザイン大国として、今、2020年のこの日本は存在している。その国民に、半世紀以上時間をさかのぼったような超絶古くさいデザインの、しかも何故か現在の平均的マスクサイズからは異様に小ぶりのマスクを送りつける。「ださ過ぎてつけたくない」「何かの悪い冗談?」「こんなものをつけたら笑い者になる」と国民が思うのは当然だ。(ちなみに私は家の中で母と接する時にだけ使っている。とても外につけて出て行く勇気はない)
       * 
一体どうしてこれほどのずれまくった顛末になったのか?
工場に発注に出す時に、必ず仕様書があったはずだし、おそらくサンプルも作っただろう。誰もチェックしなかったのだろうか?国家事業でそんなことはあり得ないだろう。
その段階で、別に有名デザイナーではなくても良かったから(もちろん有名デザイナーが超クールデザインのマスクを打ち出し、世界から「日本すげー!」と思われる展開だったらもっと良かった)、どこかのアパレルメーカーか、或いはふだんからマスクを販売している花王のような会社の内部デザイナーに依頼していたら、こんなばかばかしいデザインは絶対に出て来なかったはずだ。おそらく最初に挙げた無印のマスクに近い、シンプルで、機能的なデザインが上がって来たことだろう。

私は、このマスクの一事に、今の日本政府のすべてが象徴されているように思う。
「国民はマスクで困っている。だからとにかくマスクを与えておけばいい」
という、形式主義。けれど、先進国の生活は、その「マスク」なら「マスク」という一つの事物に美や情緒が投影され、それを享受することを標準としている。良い悪いの価値判断はさておき、それが先進国の「豊かさ」、形式の内側にある内実というものだろう。
その豊かさをまるまるはぎとったものを平気で送りつけて来るということは、政府は、国民の標準の感覚、つまりは生活の内実に全く思いを寄せられていない。そう結論するしかない。
「はいはい、マスクがほしいんでしょ。だから、はい、マスク。これでいいでしょ」という、「やった」という実績だけ残せばいいという姿勢。まさに形式主義の極みだ。或いは、「和牛券を提案すれば、肉業界の票がもらえる」という、これも、実に短絡的で、国民全体の苦しみという内実に目が届かない、選挙病の形式主義と言えるだろう。

もちろん、政府は、ともかくここまでは、感染の大爆発を抑えることには成功した。この点は高く評価すべきだと思う。生命と医療システムを守るという生活の最も基礎のライン=形式の維持には成功したのだ。
しかし、生活には内実があり、それは経済であり、日々の無数の小さな営みの数々であり、そこに寄り添った政策をどれだけ打ち出せて来たか、という点では低評価にならざるを得ない。感染爆発防止に成功したにもかかわらず、各種調査で政府への評価が非常に低いという世界でも珍しい現象は、だからこそ起こっているのだと思う。
     *
ただ、今回、良かったことは、この政府の激しくずれた形式主義に、その都度、主にSNSを中心として、大きな怒りの声が上がったことだと思う。そしてそのうねりが間を置かず政策を動かすという、新しい流れも生まれて来た。
これまで、私たちは、選挙という非常に時差のある手段でしか政策評価行動を取れなかったけれど、SNSの生活インフラ化により、知らぬ間に、リアルタイムでの評価行動が取れるようになっていた――本当はずっと以前から起こっていたこの大きな変革を、新型コロナウイルスを生き抜こうとする苦しい過程で、多くの人がはっきりと意識するようになった。それが、この冬から春にかけて私たちが経験したくさんの変化のうちでも、最も大きな変化の一つなのかも知れない、ということを、マスクを眺めながら思ってみたりしている。

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