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夏をあきらめて、の世界 2024/08/12
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昭和のシティポップが世界的に人気を集めているらしい。
私は「ザ・ベストテン」を毎週テレビにかじりついて視聴していた世代だから(当時小学生)、あの頃の唄が褒められると素直に嬉しい。中でも好きな曲の一つが「夏をあきらめて」で、研ナオコのかすれた声と甘美なメロディーとアレンジ、そしてほのかにセクシャルなイメージをかき立てる気だるい歌詞が混然一体となって、サウダージな音楽世界を現出している。
強烈な猛暑に見舞われているこの夏、昨年受けた手術の影響でとても疲れやすいこともあって出歩くことを〝あきらめ〟まったりと過ごしている。そして気がつくとこの唄を口ずさんでいたりするのだけれど、改めて、歌詞の世界のことを考えてみたいと思った。実は、この歌詞がどのような状況を表現しようとているのか、よく分からないという人が多いようなのだ。
試しにyahoo知恵袋を検索してみると(yahoo知恵袋が大好きだ)、ストレートに「この歌詞の意味がまったく分からないので教えてください」とか「これは夏の終わりの情景なのでしょうか」などと、かなりの数の質問が書き込まれている。
ブログで採り上げている人も多く、夏の終わりに感じるそこはかとない寂しさをこの曲に感じると書いている人もいれば、歌詞の中の男女がこの後ベッドで愛し合うことを示唆した色っぽい唄だと言う人もいる。一方で、終わりかけた恋人たちの、別れの予感を色濃くただよわせた海辺の一日を描いているのだと言う人もいる。
私は、芸術にとって最も根源的な要素は曖昧性だと思っているから(だって芸術は機械工学ではないのだから!)、桑田佳祐によるこの歌詞は人々に様々な解釈を許す名作なのだと改めて認識させられた。
*
では、私自身の解釈はどうかと言えば、まず、「夏の盛りなのか、終わりなのか」問題について言えば、晩夏の唄ではないと思っている。ただ、一番の盛りの時期でもなく、まだ梅雨の記憶もかすかに残る七月初旬、始まったばかりの夏の一日と取りたい。
この恋人たちは「〽二人で思い切り遊ぶ」つもりでビーチへやって来ている。もちろん大人の男女二人なのだから、本気で巨大砂山を作ったり沖まで競泳して遊ぶつもりである訳はなく、ビーチでまったり背中を焼いて、二人で浮き輪につかまって少しだけ浅瀬でぱしゃぱしゃと海に入り、ビーチに戻ってレモンライムを飲んで‥‥といったところだろう。そう、ホイチョイ&わたせせいぞうの世界だ。
*
ところがそんな二人のきらきらした夏の計画も、ビーチに着いて間もなく降り出した雨でご破算になってしまった。その時に男が思うのが、
〽きっと誰かが恋に破れ、うわさの種に邪魔する
‥‥というのは、つまり僕はパートナーのいる恋愛勝ち組だけど、負け組の連中が嫉妬するからやれやれ雨になっちまったよ‥‥ということで、それはちょっと性格が悪過ぎやしないだろうか、と昔からぼんやり思っていたのだけれど、今回よくよく考えてみると、この〝誰か〟というのは反語的表現ではないだろうか。
つまり、この男の頭には不特定多数の〝誰か〟ではなく本当は具体的な一人の人物の顔が浮かんでいて、それは、彼が彼女を恋人にした時に競い合った恋のライバルの男なのではないだろうか。そしてその男が今オレたちにちょっと嫌がらせをして雨を降らせて来るんだ、と肩をすくめているのだ。
或いは、この男が彼女と一緒になるために別れを告げたex彼女がいて、そうか、あの子がまだ怒っているのか、でもまあ、仕方がないな、オレたちは今熱い恋の中にいて幸せだから、という甘美な驕りが冷たい雨の中に感じられる。だからやはりこの唄は恋の始まりを描いているし、その舞台にふさわしいのは夏の盛りではなく始まりの季節ではないかと思うのだ。
*
そして二人は間の悪い雨にため息をつきながら海岸沿いのホテルまで走り、キラキラと楽しむはずだった〝夏をあきらめる〟。たぶん彼女はバスタオルか何かを羽織ってしまったから、もう〽腰のあたりまで切れ込む水着も 見ることは出来ない。
やがてラウンジなのか、部屋の中なのか、二人はすっかり冷えてしまった体を温めるために熱いお茶を飲む。そして彼女はシャワーに入り、男は窓辺に座って彼女を待っている。海の向こうに雨にけぶる江ノ島が見える。腰のあたりまで切れ込む水着どころか最後の防波線のようなその小さな布さえもはぎ取った甘美な時間がこの後すぐ始まるのだ。夏をあきらめたことでその時間はより長く濃密に引き伸ばされたはずだ。あきらめたものと、手にしているものとの限りない落差。これ以上考えられない甘い幸福。それを高らかに夏の太陽に寄せて言うのではなく、間の悪い雨をなじりながら言ってみるところにスノッブな成熟がある。すべてが反語の世界という訳だ。
*
――と、これが私の解釈だが、どうだろうか。もちろん、終わりかけている恋人たちが最後にもう一度関係を取り戻そうとやって来たビーチで雨に降られて‥‥と解釈することも出来るしそれはそれで気だるい物語が紡げそうだが、ただ、冒頭の〽きっと誰かが恋に破れ、の部分と整合性を取るのは少し難しいかも知れない。
ともかく夏をあきらめると確かに時間は引き伸ばされ、これまで何となく引き出しにしまったままにしていた物事を手のひらに転がしてみる時間が生まれている。