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映画『国宝』感想 2025/10/27
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映画『国宝』をようやく観に行くことが出来たので、遅ればせながら感想を書いてみようと思う(ネタバレを含むので未見の方はお気をつけください)。
まず、本当にざっくりと言うなら、私はそこまで強い感動はこの作品に対しておぼえなかった。
もちろん、駄作ではないと思う。それどころか入場料以上のものをきっちりと返してくれる佳作であり、良作であり、ところどころでは私も涙ぐんでしまった。映像は美しく、正確に時代を再現した美術や衣裳も素晴らしい。出演俳優の一人一人が優れた演技をしていること、中でも主演の吉沢亮と横浜流星の圧倒的な素晴らしさはもう言い尽くされているだろう。ただ、映画全体を見渡した時に傑作かと問われれば、私はそうは思わないのだ。
この映画には吉田修一による同名の原作があり、鑑賞前にそちらも読了した。その原作に対しても同じ感想を持っている。悪い小説ではないけれど、平凡。古典的な〝宿命のライバルもの〟の常道通りの展開だな、と。
たとえば私が少女時代に親しんだ漫画で言うなら、『エースをねらえ』や『ガラスの仮面』。
スポーツや芸術の分野で二人の才能ある若者が競い合う物語だ。一方は生まれついての華があり、幼い頃から天才と言われ続けて本人もそう自覚している。しかし真の怪物的才能は、一見どんくさく見えるスロースターターの方に宿っていて‥‥
『国宝』もまさに〝この宿命のライバルもの〟の定型をそのまま踏襲している。
いつの時代にも人を惹きつける物語であり、『国宝』は、それを日本の伝統芸能である歌舞伎の世界に置いた点が新しいだろう。
そしてどのような物語でも、物語を展開していくためには主人公が立ち向かうべき何らかの障害を必要とするが、『国宝』は歌舞伎の世界を描くことで、歌舞伎の名門一家御曹司の俊介と外から歌舞伎界に入った喜久雄、つまり〝血筋vs才能〟という新たな障害をライバル物語のフォーマットに導入することが出来た。これが『国宝』の持つもう一つの新しさと言えるだろう。
けれど、私の性格がひねくれているからだろうが、芸術作品に対しては、既成の定型フォーマット自体を揺るがすような新しい認識体験があるべきだと考えている。
これは別に現代アートによく見られるような〝くそくだらない(おっと、汚い言葉失礼)〟思考ゲームである必要はなく、大衆小説や娯楽映画の形を取っても十分に達成出来ることだと思っているが、この視点で見た時、『国宝』は定型のライバル物語のフォーマットの内側にとどまっていて、平凡だと思うのだ。つまり〝血筋vs才能〟という障害はフォーマットのレース飾りに過ぎない、ということだ。
ちろん、その定型フォーマット内の物語としては、小説『国宝』も映画『国宝』も最高度の水準に達している。だから冒頭で佳作であり良作と書いたのだった。
*
ところで、この映画のもう一つの見方として、芸に生きる人々が己の芸を磨き、やがて名人へと成長していくまでを描く〝芸道もの〟という分類も出来るだろう。
よく比較されるのが中国の陳凱歌(チェン・カイコ―)監督による『さらば、わが愛 覇王別姫』で、実際、『国宝』の李相日監督は『さらば、わが愛』に感銘を受け、自分もいつか芸道ものを撮りたいと思い続けて『国宝』の制作に到ったとインタビューで語っている。
私はこの『さらば、わが愛』を、正確な回数はもう分からなくなってしまったけれど、少なくとも十回は観ている。やはり中国の伝統芸能である京劇の女形役者が主人公で、『国宝』と同様、幼い頃から厳しい稽古を積んでやがて名優へと昇り詰めていく。
私は、この映画は真に傑作だと思う。日本人だから、日本映画により優れていてほしいと願う気持ちがあるが、二作を比較すると、やはり『さらば、わが愛』に軍配を挙げざるを得ない。そしてその差は物語のパースペクティブから来るものだと考えている。
『さらば、わが愛』は、日中戦争から文化革命にわたる、中国現代史の中でもとりわけ激動の時代を物語の舞台に設定している。
政治体制がめまぐるしく変わり、今日の体制側が明日には糾弾される側に転落することも珍しくない不安に満ちた時代。その中で、主人公と彼の役者仲間は自分の生命や社会的身分を守るのか、それとも芸の尊厳を守るのか、という決断に幾度も迫られることになる。
戦後の平和な日本社会の中で己一人の芸に悩む『国宝』に比べると話のスケールが格段に大きく、懊悩の深度も深い。ここに『国宝』がカンヌ映画祭でスタンディングオベーションを受けたのみに終わり、『さらば、わが愛』が最高賞であるパルムドールを受賞した彼我の差の遠因が存在するだろう。
中でも、日中戦争後、中国の粗野な民衆が京劇の芸術性を理解せず、更には毛沢東に操られるがまま文革の熱気にのぼせ上がった若者たちが京劇にむりやり共産主義思想を導入して根底から京劇を破壊していく悲劇的な状況の中で、主人公が、最も憎むべき存在であったはずの日本軍将校の方が京劇を理解していた、と認識する逆説的な展開は〝芸道もの〟の定型を超越して、芸術と社会、道徳と美の対立という人類の普遍的な問題へと到達している。
このような定型の突破を『国宝』に見たかったと思うのは、求め過ぎというものだろうか。
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日本での大ヒットを受けて、これから『国宝』は世界各国で公開されると聞く。商業的な成功については、私はどうこうと予測は出来ないけれど、評論家、或いは創作に関わる人々に高く評価されるかという点では、難しいのではないかと感じている。
何故なら、世界では普通、芸とはただひたすら実力のみで評価されるものであって、血筋は一顧だにされないからだ。百年、二百年にわたって代々モーツァルト弾き、代々バレリーナの家など存在しないし、舞台でシェイクスピア古典劇を演じられる俳優は尊敬されるが、その訓練を受ける英国王立演劇学校には公平な試験を通してしか入学出来ない。
だから、海外の人々には『国宝』の「血筋か、才能か」という問題設定自体がナンセンスと受け取られるのではないだろうか。或いは、〝封建的制度を才能で乗り越える青年の物語〟というポリティカリーコレクトネスの文脈でとらえられるかも知れない。
いずれにせよ、日本の観客が、ライバル物語の定型として二人の若者がひたむきに競い合う姿を純粋に愛でたようには、海外の観客には受け取られないのではないかと思う。
ただ、このように書いたからと言って、私は日本の「家」制度、「家元」制度を否定している訳ではない。この制度があることで守られて来たものも多いと思う。
たとえば明治維新の際にもしも家という仕組みがなければ、当時、大名の庇護を失って困窮に陥った能も狂言も茶の湯も失われてしまった可能性は高い。
先祖が代々受け継いで来たものだと思うからこそ、その家に生まれた人々は必死に家の芸を守り続けたのであり、その厳しい使命感は尊いものだ。そして、だからこそ、『国宝』というこの映画は、徹底的に日本ローカルな作品だと思うのだ。
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最後に、映画『国宝』と小説『国宝』で異なる或る一点について言及しておきたい。
それは主人公の二人が最後に共演する演目で、小説では『隅田川』だが、映画では『曽根崎心中』に変えられている。そしてこの改変に李監督はいくつもの意図を込めているように思える。
その第一は、物語の構成上から来る意図で、『曽根崎心中』は俊介が青年時代に喜久雄との才能の差を初めて思い知らされた因縁の作品だから、その同じ『曽根崎心中』を最後に再び演じるとすることで、二人の長い葛藤をより強く観客に印象づけることが出来る。
第二に、『曽根崎心中』には遊女お初の足を愛人の徳兵衛が押しいだきあごをすりつける重要な場面があるが、『国宝』のストーリー中では、お初役の俊介は糖尿病の悪化によって足が紫色に壊死し始めているから、その痛々しい足を徳兵衛役の喜久雄が愛おしく手に取って顔をすりつけることで、これまで自分の才能によって傷つけ続けて来た俊介をいたわり、許しを請うという暗喩を含ませることが出来る。
そして最も重要な第三の意図は、最後の心中の場面に仕組まれている。この場面ではお初は徳兵衛に「はや、はや、殺して」と短刀を差し出して自分をひと思いに刺すようせがむが、そのくだりが俊介と喜久雄の関係に重なっていく。
生涯にわたり喜久雄との才能の差にもがき続けて来た俊介。その彼が自分の死期を悟って『曽根崎心中』の舞台をつとめながら、「殺して」というお初の台詞を借りて「俺を殺してもっと先へ進め」と全身全霊で喜久雄に伝えている。この健気さは全編で最も心を打つ場面の一つであり、李監督が『隅田川』ではなく『曽根崎心中』を択んだからこそ達成された。監督の見事な計算だと思う。
そしてもう一つ、『さらば、わが愛』との近似が想起される。
『さらば、わが愛』では、京劇『覇王別姫』が何度も繰り返し演じられる(特にラストシーンで重大な意味を持つ)。
敵の軍勢に包囲され、もはや死ぬまでとなった古代中国の王と王妃。愛する王に向かって王妃は「その剣で自分を殺してくれ」と懇願する。
これはお初が徳兵衛に短刀を差し出すのとまったく同じシチュエーションであり、『曽根崎心中』を択ぶことで李監督は『さらば、わが愛』へのオマージュをも込めたと考えるのは穿ち過ぎだろうか。或いは偶然なのだとしたら、そこには創作の神の意志が働いていたようにも見える。
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こうして物語は最終章に入り、俊介没後一人で舞台に立ち続ける喜久雄はついに人間国宝に認定される。人間でありながら、宝。芸能の神の領域に達した喜久雄のもはや芸の容れ物のような底なしの表情に驚かされる。三十そこそこにしてこの表情を演じられる吉沢亮の喜久雄に似た怪物的演技力。そしてそのネガのような横浜流星のどこまでも地上の人間であり続ける演技。役と役者がないまぜとなり生まれる幻惑に酔いしれる分には最高の一作なのだろう。