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花と歌と猫と映画、生存報告 (2024/05/14 )
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うさぎや閉店と変わる阿佐ヶ谷の街 2024/05/22
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今週、阿佐ヶ谷の和菓子店うさぎやが閉店してしまった。
上野と日本橋にもまったく同名のうさぎやがあって、三店は親戚同士だけれど、阿佐ヶ谷店だけが閉店する。常にお客さんが絶えない人気店だったから、経営不振が理由ではなく、「店主高齢化のため」とのこと。跡継ぎがいらっしゃらないのだろうか。悲しくてたまらない。
私は一日一つ上生菓子を食べる上生菓子マニアで、好みも自分なりにうるさく、きんとんは吉祥寺の亀屋萬年堂(特に百合根きんとん)、黄身しぐれは青山の菊家、薯蕷饅頭はお茶の水のささま、こなしは大久保の源太‥‥などなど、どこの店の何、というところまで細かく決まっている。
その中で、阿佐ヶ谷のうさぎやは練切の店だった。ここの練切が東京で一番好きだったから、はかり知れない打撃を受けている。
最後にうさぎやの練切を食べたのは3月28日だった。
桜の形の練切で、こし餡であることも私の好み通りだ。我が家からうさぎやまでは中央線で三駅。いつも電話で取り置きしてから買いに行くが、その日は「上生菓子は、桜の練切一種類しかないのですが、よろしいですか」と言われ、少し変だなとは思った。うさぎやには常に雪片や薯蕷饅頭など数種類の上生菓子が並んでいるのに。そうか、この季節は桜の注文が大量に入るから、それしか作らないのね‥‥と勝手に決め込んでしまって、その時に、どうしてですかと質問していれば、閉店のことを教えてもらえたのかも知れないと思うと悔しくなる。
それから十日ほど後、フェイスブックで偶然うさぎや閉店のニースを知った。何とかあと二回でも三回でも、この世から消えてしまう前にあの練切を食べておきたい。ゴールデンウィークは混むだろうと予想して、4月15日週の平日の朝、いつも通りまず電話をかけると、自動音声の回答で「すべての予約は締め切りました。直接のご来店のみお受けしています」という。
それで、とにかく店に向かったが、長蛇の列が出来ていた。あまりの人出のため警備員さんを雇ったらしく、店とは何のゆかりもない警備保障会社の制服を着た、お菓子のことには詳しくなさそうな中年の警備員さんが汗水たらして行列の監督をしていた。ああ、こんなにもうさぎやは愛されているのだ、と呆然と列に並ぶしかなかった。
けれど、悲しいことに、その日、練切は買えなかった。
うさぎやは何と言ってもどら焼きが一番の人気商品だ。店としては、「最後にどら焼きを食べたいんです!!!」という人々の切実な思いに答えるために、とにかくどら焼きを大量に作らなければならない。上生菓子は作るのに時間がかかるため、職人にもう余裕がないんです‥‥と、ようやく三十分ほど並んで店に入った時に教えてもらった。
それでも気を取り直して、せめてうさぎ饅頭を買って帰ろうと思った。これは二番目に人気のお菓子で、うさぎの形をした何とも言えずかわいい薯蕷饅頭だ。母の好物で、私も好きだからよく二人でおやつに食べていた。けれどそれさえももう売り切れだという。私は半べそ顔になり、唯一買えた鹿子を買ってすごすごと帰宅するしかなかった。
*
それでも、もう一度、ゴールデンウィーク明けにうさぎやに行った。
もう練切を食べられないことは仕方がない。せめて最後にうさぎ饅頭を買って母の遺影に供え、空の上の母と美味しいねとお喋りして食べたいと思った。
日にちはもちろん平日を狙った。休日はもう到底無理に違いないけれど、平日ならきっとまた三十分ほども並べば買えるだろう‥‥駅から早足で商店街に入ると、店の前には誰も並んでいなかった。ああ、良かった。人波のピークは過ぎたのだ、と胸をなでおろした時、横からあの警備員さんが現れた。
「皆さんに、あちらの公園に並んで頂いています」と言う。「二時間ほどかかると思います」
それで、もう、あきらめて家に帰るしかなかった。二時間並んでうさぎ饅頭が買えるのならいいけれど、売り切れてしまうかも知れない。しかも今、あまり体調がすぐれず無理も出来ない。何もかも、見通しが甘過ぎた自分が悪いのだ‥‥
*
実は、うさぎやに行くと、いつも帰りには商店街の先の河北病院に寄っていた。母が肺がんの化学療法と、また、もう一つの持病の治療のために通っていた病院だった。2017 年からは認知症が始まり、予約手続きや薬の受け取りを失敗するようになったために、毎月、私が付き添って通っていた。
やがて2021年には母は寝たきりになり、それからは介護タクシーをチャーターして、私は車椅子を押して毎月各科やら検査室やらを必死で回ることになった。廊下の曲がり角一つ一つに、介護の思い出がびっしりと詰まっている。
それなのに、あれほどつらく悲しい日々だったのに、院内を歩いているとまだ母と一緒にいるような気がして、車椅子を押して一緒に歩いているように思えて、いつも用もないのにしばらくぶらぶらと、うさぎやの袋を下げて歩き回ってしまうのだ。
けれど、その3月28日に訪ねた時、近くの広大な空き地に巨大なクレーンが建っていた。掲示板を見ると「河北病院新院建設工事」と書かれている。
これまでは、三つの病棟が時代を追ってばらばらに建てられ、それらを渡り廊下でつないだ複雑きわまりない構造の、そしてだいぶ古びた病院だった。けれどどうやらぴかぴかの高層インテリジェントビル病院に生まれ変わるらしい。患者さんや、その患者さんに付き添う家族のためには、もちろんその方が良いに決まっているのだけれど‥‥
うさぎやも閉店して、河北も新しくなって、もう、阿佐ヶ谷にママの思い出は何もなくなってしまう。そう思うとたまらなく悲しくなった。
もちろん、街も変わるし、人も変わっていく。この世界に変わらないものなんて何もない、と鴨長明の昔から言われているしそんなことは知っていたけれど、知っていたことと実際に感じることとは違うのだ。もう阿佐ヶ谷なんて来ないよ、と意味不明にやさぐれてその日は駅まで歩き、それでも、最後にもう一度食べたいと二度までも足を運んだのにうさぎ饅頭さえ食べられないまま、私と阿佐ヶ谷の縁は切れようとしているのだった。
上の写真は、2年前の2月に、うさぎやさんの春の初めの季節の定番、うぐいすの練切を撮ったもの。おそらくほんのりと抹茶を練り込んでいて美味しく、梅の模様の薩摩焼の茶碗とともに頂くのが毎年の楽しみだった。
そして、冒頭の写真は、最後に桜の練切を買った、今年3月28日のウィンドウ。
桜の練切とうさぎ饅頭が飾られていて、今となれば何だか私の恨みの結晶のような一枚になってしまったのだけれど、やはり撮っておいて良かったと思う。
人生の他の数々の思い出と同じように、本当に美味しかった食べもののその味の記憶は、一生、胸に残ると思う。そして柔らかくあたたかな春の霧のように、ゆっくりと口中によみがえって来る。
うさぎやさん、ありがとう。長い間、杉並と、その周りの地域に住む私たちの毎日に、小さな、けれど生きる支えとなる楽しみを運んでくれた。長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとう。
花と歌と猫と映画、生存報告 2024/05/14
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しばらくSNSから遠ざかっていたので、生存報告を。
特に何か理由があった訳ではなく、仕事の原稿が重なると更に文章を書くのは脳がさすがに疲れてしまう‥‥というただそれだけのことで、若干の体調不調はあるものの元気にしているので、ご安心ください。
基本は家にいて、原稿を書いたり、構成を考えたり。
上の写真は、少し前に庭の白山吹が満開になったので、床の間に生けたもの。
白山吹はとても好きな花の一つで、敢えて同じ白磁の花器に生けてみた。
北海道で作陶されている高橋里美さんの手になるもので、中肉中背ほどの白磁の花器がほしいな、でもお高いし‥‥と思っていたら、たまたまお茶に入った青山Maduで見つけ、しかもびっくりするほどお安く、即決で購入した。
後ろのお軸は、絵更紗の大変しゃれた短冊掛けで、父方の祖父の遺品の中にあった。「と志子描」と箱書きがあり、祖父は大学教授で女性のお弟子さんも多かったので、そのどなたかが贈ってくださったものではないかと思う。
そのお軸に、太田垣蓮月の短冊を掛けた。コロナ禍中に気がくさくさしていた時に、古書店のサイトから購入したもので、「あられ」と題された歌が書かれている。崩し字が読めないため、実は内容は分かっていないのだけれど、「あられを詠んだ歌って、何だかいいな」と、ただそれだけで購入した。女性の手になるお軸に、女性の文字を掛けたいという思いもあった。
読める方、ぜひ読み下しをお願い致します!
少し前に皮膚がんの手術で左前脚の指を一本切除した猫のチャミは、その後は元気いっぱいに暮らしている。私を追い越して階段を駆け上ったり、棚から棚へ大ジャンプをしたり。今思えば、がんが進行していた頃は、やはり指が痛かったのだろう、動きがおとなしかった。何だか若返ったようで、嬉しくて涙ぐんでしまう。
上の二枚の写真は、仕事をしている私の机の下で寝ているところと、おもちゃで遊びながら寝てしまったところ。食欲もものすごく、がんで痩せたのにかなりリバウンドしている‥‥
一本、中国映画も観た。最も愛する俳優、トニー・レオン主演の「無名」。
日本軍、汪兆銘政府、共産党、それぞれのスパイがうごめく1940年代上海の汪兆銘政権内部を描いた作品で、つまりはアン・リー監督の「色、戒(ラスト・コーション)」とまったく同じ題材を扱っている。実はこの汪兆銘政権で私の母方の曾祖父が経済顧問を務めていた(日本政府から派遣された)。個人的に長く関心を持ち続けている時代だ。
「ラスト、コーション」の公開時、汪兆銘政権という、中国人にとっては政治的に非常に微妙な題材を扱っていたためか、主演の湯唯(タン・ウェイ)が数年にわたり謹慎状態に置かれるという事件があった。しかし、もう一人の主演俳優であるトニー・レオンは変わらず活躍が続き、不可解とも言われていた。
その同じテーマを描く作品に再びトニーが出演するのは政治的にかなり冒険ではないか、と心配して足を運んだが、うすうす予想していた通り、結局、勝つのは栄光の共産党!という方向でまとめられていた。まあ、実際勝ったのだけれど、今の中国の検閲体制ではこう描くしかないのだろう。
そんな中で、トニーの演技は、相変わらず化け物のように素晴らしい。
特に、冒頭、共産党からの寝返り者を尋問する場面。相手を安心させようと温厚な態度を装う汪兆銘政権幹部、という難シチュエーションを神業的演技で表現している。この一場面だけでも代金を払う価値がある。
映画自体は、冒頭に述べたように、日本軍、汪兆銘政府、共産党、三者のスパイがそれぞれ自分の立場を隠して駆け引きを繰り広げ、誰が裏切り者なのか二転三転して分からないところに面白さがある。日本で言う〝考察〟系の作品に当たる。
ただ、その謎の提出のし方が、時間軸をばらばらにした編集で観る側を煙に巻く手法に頼っているところもあり、つまるところは娯楽映画。人間性の深淵を描き出した「ラスト、コーション」には遠く及ばない。けれど、娯楽映画としては上質の作品だと思う。他の俳優たちの演技も素晴らしかった。
それにしても、トニーが暗い顔をして執務室に座っていると、どうしても「ラスト、コーション」の易(イー)に見えてしまい、頭が混乱してしまう一本でもあった笑。
時には人生から小さな贈りものも届く。
SHIPSの顧客向けキャンペーンに当選し、バッグが届いた。ケリーバッグのデザインをナイロン素材で作ったもので、とてもハンサム。デニムやだぶっとしたワンピなど、自分の好きなスタイルに合いそうで嬉しい。
SHIPSには、井の頭公園の手前に店舗があった時代からずっと通って来た。一年に一、二枚買う程度だけど、時にはこんなお返しももらえるのだ。
‥‥という訳で、変わらず低め安定(?)に生きている。また思い出したように更新するので、時々生存確認に来て頂けますよう。