MAYA from West End

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*日記は日本語のみで、翻訳はありませんが、時々全文中国語の日記も書きます。
*日記の写真はデジタルカメラと携帯のカメラで撮影したものであり、作品写真ほどのクオリティはないことをご理解下さい。「本気で写真撮る!」と思わないと良い写真が撮れない性質なのです。

*這本日記基本上用日文寫、沒有中文和英文翻譯。可是不定期以中文來寫日記。請隨性來訪。
*日記的相片都用數碼相機或手機相機來攝影的、所拍的相質稍有出入、請諒解。我一直覺得不是認真的心態絕對拍不出好的東西。
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クロワッサン誌「着物の時間」クリスピークリームドーナッツ代表 若月貴子さんの着物物語を取材しました 2024/07/22



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前回お知らせした書評に加えて、もう一つ、マガジンハウス「クロワッサン」誌でのお仕事のご紹介を。
編集部の体制変化にともないしばらくお休みしていた、連載「着物の時間」。
今後は月前半、5日発売の号を担当することとなり、第一回目の今月はビジネスの第一線を走る女性を取材しました。
クリスピークリームドーナッツ日本法人代表取締役社長、若月貴子さん。
まだまだ女性社長が少ないと言われる日本で、グローバル企業の日本法人代表が女性であることが、同性として、何とも誇らしい!
そして、そのようにパワー(ここではもちろん、権力という意味でのパワー)を持つ方が、海外メゾンの服だけではなく着物を愛されているということも、着物好きとして大変嬉しくお話を伺いました。
多忙な、そしてプレッシャーも多いと想像される毎日の中、どのように着物と関わられているのか――ぜひ記事をご高覧ください。


書評掲載のお知らせ~~ポジティブシンキングという一種の暴力思想をめぐって 2024/07/10



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――医学事典には載っていないが、〝アメリカ病〟という病があると思っている。
本日発売のマガジンハウス「クロワッサン」誌書評欄に、そんな一行から始まる新刊書評を書いた。
半頁ほどの短いものだが、書き記した内容にも、そして、字数が短いからこそドライブ感が出るよう工夫した文体にも、100パーセント満足している。読んで頂けたらとても嬉しい。

編集者のHさんから、「書評を書いてみませんか?」と連絡を頂いたのは、四月の終わり頃だった。直近四カ月以内に発売の新刊本であれば、好きな本を択んで良いという。そして何ともタイミングの良いことに、その時私には「今度本屋さんに行ったら買おう」と携帯のメモパッドに書き留めていた新刊本があった。
自分が読みたい本を読んで、自由に意見を書いて、更にお金がもらえるなんて、こんな楽しい仕事があっていいのだろうか?いそいそと二つ返事で引き受けることにしたのだった。

そうして採り上げたのが、『アメリカは自己啓発本でできている』という一冊だ。
多くの人に読んでもらうことを願ってのことなのだろう、軽い印象の題がつけられているが、著者は愛知教育大学教授の尾崎俊介氏で、専門はアメリカ文化史。自己啓発、そしてポジティブシンキングというアメリカ発祥の見逃せない民間思想が、どのような背景から生まれ、どのように普及して来たかをつぶさにひもとき、更には日本への影響についての分析も行っている。

私がこの本に注目していたのは、私自身がポジティブシンキングという暴力的な(と敢えて書こう)思想について、切実な体験を持っていたからだ。
この七年あまり、私は、愛し、尊敬していた母が認知症を患い、その人格と知性を崩壊させていく様を目にしながら生きていた。そしてそれでも力を振り絞り、家にいたいという母の最後の願いをかなえるために、100パーセント自宅での介護を続けていた。更にその母を看取ってまだ悲しみも癒えない中で、自分自身に癌が見つかり手術を受けることになった。
人生で起こり得る最大級の苦しみを味わい続けた日々だったわけだが、その中で最も心を傷つけられたのが、ポジティブ思考を信条とする一群の友人知人たちから投げかけられる無遠慮なメッセージだった。
彼らは私に「確かに大変な状況だけどさ、でもさ、ネガティブしてたって仕方ないじゃない」「ほーらほらほら、マヤさん、前向きにならなきゃ!前向きよ!前向き!」と、会話の中でぼんやりとほのめかしてみたり、或いはたしなめという形で表現したり、或いははっきりと言葉に出して伝えて来る人もいた。
それは言わば傷つきよろめきながら歩く私のあごを無理やり持ち上げ、笑顔で!前向きに!スキップして!歩けと要求することであり、私はただただ唖然とするしかなかった。
そして胸の底で彼らを憎み、絶交を誓ったのだが、一方で、大学で哲学を専攻し、生来物事の原理を探求しようとする私の性分が、このモンスター的思考が何故世に跋扈しているのかを探り当てたいと願い、そしてその時、そこにはおそらくアメリカの影響があるのではないかという推測がひらめいていた。
私が深く愛する二本のアメリカ映画の登場人物、『マグノリア』でトム・クルーズが演じた男根主義のカルト自己啓発セミナー講師。そして、『アメリカン・ビューティー』で、「私は出来る、私は出来る、私は出来る」と鏡の中の自分に語りかけながら営業に向かう女性不動産セールスマン。事故の中に必ず存在する弱さを憎み、拭い去ろうと努め、ひたすら前へ前へ、上へ上へと強く上昇しようとする狂信的な姿が思い浮かんでいた。
そして参考となりそうな書籍を求め、検索を繰り返していく中で引っ掛かったのが、この尾崎氏の書籍であり、もう一冊、アメリカ人ジャーナリスト バーバラ・エーレンライクによる『ポジティブ病の国、アメリカ』だった。

今回の書評では、この二冊を軸に、私が理解したポジティブシンキングのアメリカでの誕生と発展、そして日本人がその影響をいかに強く受けて来たかという波及の歴史を、上記したような私自身の痛みと恨みの体験も交え、記している。
そして〝ポジティブ〟〝前向き〟というこの陽性の顔をした暴力思想に対峙するもう一つの人生態度も、結語として提示しているつもりだ。
もちろん、私はユーモアを深く愛する者でもあるので、随所にくすりと笑える断章を散りばめてもいる。渾身の原稿を、書店で、電子書籍で、ぜひご一読頂けたらありがたい。

術後一年 2024/06/25



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昨日は子宮体がん手術から一年目に行う精密検査の日だった。
胸から骨盤内まで、子宮がんが転移しやすい部位全体にべったりとCTを撮る。それもただのCTではなく、造影剤という液体を血管に流し込んだ上で撮る精度の高いもので、昨年2月、子宮に異常があると診断が出た日から手術前までに山ほど検査を受けて来たけれど、一つだけまだ受けたことのない検査だった。
今回で、ついに、エコー(超音波)、単純CT、MRI、PET CT、そして造影剤CT。がんにまつわる画像検査をすべてコンプリートしたことになる!‥‥ってもちろん、こんなことをコンプリートしたくはなかったのだけれど。

それにしても、こうして一年が過ぎ再び同じ季節を迎えると、やけに手術当日ことを思い出す。
もちろん、手術自体は麻酔で眠っている間に行われたから記憶はまったくないけれど、その麻酔が切れ、自分が独房のような小部屋に一人で寝ていることに気づいた時の、何とも言えない奇怪な感覚がよみがえるのだ。

そこは「ICU」と呼ばれる二畳ほどの小さな個室で、手術後の患者が一人ずつ個別に収容される部屋だった。
――と、今ではそう知っているけれど、術前にいちいち部屋のディテールの説明はないから、麻酔が切れるとただ自分がそこに置かれているという状況だった。
部屋には一切の装飾がなく、什器も、医療機器さえも備えつけられていなかった。つるりとしたクリーム色の壁と、狭い天井。それだけが目に見える情報だった。周りに人影もなく、一体ここはどこなのか。麻酔から目覚めたことを誰かに知らせたいと思ったけれど、起き上がろうとしても体はまったく動かない。指一ミリを持ち上げることさえ出来なかった。そして全身に管がつながれていた。
管はマスキングテープのようなもので貼り付けられているものもあったし、血管に刺してあるものもあった。それどころか腹の中から飛び出している管さえあったのだけれど、その瞬間にはそこまでは分からなかった。とにかく自分が無数の管につながれている。それだけのことが感じとれた。そして空っぽの部屋に一人で放り出されていた。

その時私はまるでカフカの小説に出て来る巨大な虫のようだった。
あるいは一尾だけ売れ残り、冷凍倉庫に放置された氷漬けの鮭。あるいは血なまぐさい作風で創作された現代美術作品の――フランシス・ベーコンあたりの――ただ中に、知らぬ間にオブジェとして、強制的に、私の肉体を、私の存在を使用されている‥‥
やがて〝火〟を感じた。火は私の腹の中にあった。腹の中が熱く、ちかちかして、まるで火が燃えているようなのだ。ぼうぼうと燃え盛る強い炎ではなかった。小さく、周期は短く、けれど鋭いナイフのような火がちろちろと腹の中で燃え続けている。目を閉じるとまぶたの裏が赤く染まっていった。

――そのような状態で、どれくらいそこにいたのか分からない。一分くらいのことだったのかも知れないし、一時間ほどの記憶が断片的に残っているのかも知れない。
実際には、私は放置されていたのではなかった。呼吸や脈拍はすべて少し離れたところにあるコントロールセンターでモニタリングされ、看護師さんが見回りに来ていた。
私が手術を受けた病院は都内でも最大級の病院の一つに数えられ、手術室は二十室近くもあり、朝、一斉に各科の手術が行われる。そして術後の患者たちはそれぞれこの独房めいた部屋に収容され、集中管理されているのだった。

実際には、部屋はまったく空という訳ではなかった。頭の後方に、体から出た管の何本かをつないだモニター機器のワゴンが置かれていて、私がそれに気づいていなかったのだ。
やがて看護師さんが二人、部屋に入って来た。モニターの数値を記録して、あれこれと問診を行い、そしていきなり私の体に油性マジックペンを向け、ぐーっと線を描いて来る。しかも何か所も。一体何てことをするのだろう。もちろん医療上の理由があってのことなのだけれど、そしてそれがなかなか面白い話なのでまた別の回で書きたいと思っているのだけれど、いきなり他人からマジックペンで体に落書きされることも、おそらく人生でそうは起こらないだろう。

とにかくそのようにして、私はそのカフカ的な、実存的な部屋を出て行くことになった。
腹の中で火はまだ燃え続けている。内臓が二つ切り取られ、リンパ管も切断されたのだから、血は止まったかも知れないけれど傷口はまだただれ脈打っている。それが火のように熱く感じられるのだ。それでもストレッチャーに横たえられたまま、私はからからとその部屋を出た。

     *

――そんな手術の日から、一年が過ぎた。幸い昨日の検査の結果は良好で、転移は見られないという。
これまで経過観察のために二ヶ月に一度通院しなければならなかったけれど、今後は三カ月に一度で大丈夫でしょう、と回数も減らせることになった。本当にありがたいことだと思う。

とは言え、日々の生活の上では、まだ完全回復とは言えない状態にある。
子宮と卵巣を取ったことで腹腔内での腸の位置が定まらず、特に食後に大きな不快感が出る。一、二時間、まったく何も出来ず、ただ座っているしかないこともままある。とても疲れやすく、二日続けて外出はしないように、出来れば二日は空けるように予定を調整して、静かに暮らしてもいる。
それでも、とにかく、一番恐ろしいこと、転移は免れているのだからもう十分だろう。あの何とも言えない奇怪な感覚を再び生きることは、出来れば回避したい。とにかく一年を生き延びたのだ。

(写真は、昨年、入院中に病室で撮ったもの。少しずつ減っていくが体にはあれこれ管がつながっていて、トイレに行く時などは一緒に移動する。お腹に差し込まれている一段太い赤い管、ドレーンは、退院前日にようやく抜かれた)

あじさいの花再び咲く 2024/06/16



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三年間、花をつけなかったあじさいが、今年また咲き始めた。
それも今までにないほど多くの花をつけて枝がしなり、土にこぼれそうなほどに。

もともとこのあじさいはとても元気な木で、人の顔ほどもある大きな花をつけたこともあったし、すっきりとした青の色が好みだから、毎年六月を楽しみにしていた。
それが三年前、不意に咲かなくなってしまった。若い小さなつぼみがちらほらあったのにそれ以上育たず、そのまま葉に埋もれて終わってしまった。
おととしと去年はそのつぼみさえつかず、がっかりと六月を見送るしかなかった。何が原因だったのか分からない。虫がついて葉を食い荒らされたわけでも、隣り合った木の日蔭になったわけでもない。土もいじっていなかった。

もちろん、植物にも寿命はある。
たとえば私が物心ついた時にはもう大木だった庭の二本のもみじの木の一本は、六年前に立ち枯れ始めた。家族の一人のような木だったから悲しかったけれど、倒れる危険性を考えれば切り倒すしかなかった。
けれどこのあじさいの場合は、葉は生き生きとしていて枚数も大きさも普通の年と変わらない。むしろとても健康そうに見えるのに、花だけがつかないのだ。そんな例を見たことがなかった。

そのあじさいが、今年、再び咲き始めた。
どうして今年は咲くことにしたのか、それもまったく分からない。周りの草花を抜いて栄養が行き渡るようにしたわけでもないし、むしろすぐ隣りの車輪梅の木が今年は狂い咲きと言うほどに咲いて、ああ、養分を吸い取られた、今年もまたダメかと案じていたくらいだったのに。

機嫌を直した、とでも言う他ないが、あるいは、あじさいはちょっと疲れていたのかも知れない。毎年毎年どうしてそう律義に花をつけなきゃいけないの?花をつけるって大変なのよ。私だって少し休みたい時もあるわよ。
そんな風にほっぺたをふくらませて言う声が聞こえて来る気がする。私もこの数年人生に大変なことばかりが続いたから、分からないでもないのだ。そう思って見ていると、あじさいの丸い花がどれもぷっとふくれた頬のように思えて来る。

とにかく、あじさいは再び咲き始めた。来年はまたご機嫌ななめかも知れないが、それでも構わない。気まぐれに咲いたり咲かなかったり。そんなわがままな木もかわいいではないか。


胸ときめきくバッグと和歌のこころと 2024/06/05



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三つ前の投稿で、手持ちの、太田垣蓮月の和歌の短冊をご紹介した。崩し字で書かれていて私には読めないため、分かる方がいらしたら教えてくださいと書いたところ、お友だちがすぐに読み下してくださった。
気になっていた方もいらっしゃると思うのでご紹介したいと思う。
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たび人のかつぐひとへのひのきがさ
うちぬくばかりふるあられかな

漢字にすると、

旅人の担ぐ一重の檜笠
打ち抜くばかり降るあられかな

信州の名産で、檜で作る「檜笠」という笠があるようで、その笠を打ち抜かんばかりにあられが降る情景を詠んだ、なかなかに激しさのある歌なのだった。
そう言えば、広重の「東海道五十三次」にまさに同じ画題があったことを思い出す。二人は同時代の人だから、無意識に、幕末という激動の時代の美意識を通底させていたのかも知れない。もちろん、蓮月が広重の浮世絵を見ていた可能性もある。
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さて、そんな、崩し字をすらすらと読み解いてしまう麗しき教養人に会いに行って来た。
観世あすかさん。
冒頭では話を進めるために〝お友だち〟と書いてみたが、私のような無学の者が友だちなどと名乗るのはおこがましく、知人の末席の末席におずおずと座らせて頂いている。あすかさんは日本の古典芸術全般に通じられた美術商で、同時に、「アトリエ花傳(かでん)」という一点もののバッグブランドを主宰されている。以前、私のブログでもご紹介したので覚えていらっしゃる方もいるだろうか。

その花傳のバッグにずっと憧れがあり、私も一つ持ちたいと願っていた。コロナ禍や自分の病気で延び延びになっていたけれど、ようやくアトリエにお邪魔出来るはこびとなり、生地など見せて頂きながらオーダーのご相談を、と思っていたら‥‥一目惚れの子に出会い、そのままお迎えするという疾風怒濤の展開が訪れたのだった!その子(と呼びたくなる)が、こちらの一点だ。
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今はもう織られていないというリヨン製の最上質のグログラン生地に、手芸作家下田直子さんのビーズレースが縫い留められているという贅沢。レースはココリコ(雛芥子)の花のモチーフで、可憐でありながらどこか凛と、強い。
この二つの最高の素材が焦げ茶×白という配色で並び立ち、更に、ハンドルと側面部分に藤色の布が当てられている‥‥という、この配色の飛躍に私は最も心をつかまれた。
もともと紫系統が好きで、その紫が、常識的な黒や白やピンク系の布ではなく、焦げ茶色にめあわされているところに激しく胸がときめくのだ。
更に降る雪のように白のレースが加わって、三色が拮抗している。美しいものを知り尽くしたあすかさんによる、色の飛躍の冒険に魅せられてしまった。
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中を開くと、内布には赤茶色の花模様の布が張られている。
こちらはフランスのトワルドジュイと呼ばれる生地で、ブルボン王朝に代々生地を納めてきた生地店「メゾン・シャールブルジェ」の制作だとのこと。マリー・アントワネットが小トリアノン離宮の装飾に好んで使用した生地と言われ、当時から続く伝統的な手法で作られているのだそう。

隅々まで美意識のみなぎった、「ル・ココリコ」と名づけられたこのバッグ。きものにも洋服にもふさわしく、頭の中でコーディネイト妄想が始まっている。依然としてぼんやりとした体調不良が続く毎日ではあるのだけれど、美しいものは人を元気にしてくれる、というよく言われる真実を改めて実感している。

うさぎや閉店と変わる阿佐ヶ谷の街 2024/05/22



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今週、阿佐ヶ谷の和菓子店うさぎやが閉店してしまった。
上野と日本橋にもまったく同名のうさぎやがあって、三店は親戚同士だけれど、阿佐ヶ谷店だけが閉店する。常にお客さんが絶えない人気店だったから、経営不振が理由ではなく、「店主高齢化のため」とのこと。跡継ぎがいらっしゃらないのだろうか。悲しくてたまらない。

私は一日一つ上生菓子を食べる上生菓子マニアで、好みも自分なりにうるさく、きんとんは吉祥寺の亀屋萬年堂(特に百合根きんとん)、黄身しぐれは青山の菊家、薯蕷饅頭はお茶の水のささま、こなしは大久保の源太‥‥などなど、どこの店の何、というところまで細かく決まっている。
その中で、阿佐ヶ谷のうさぎやは練切の店だった。ここの練切が東京で一番好きだったから、はかり知れない打撃を受けている。
   
最後にうさぎやの練切を食べたのは3月28日だった。
桜の形の練切で、こし餡であることも私の好み通りだ。我が家からうさぎやまでは中央線で三駅。いつも電話で取り置きしてから買いに行くが、その日は「上生菓子は、桜の練切一種類しかないのですが、よろしいですか」と言われ、少し変だなとは思った。うさぎやには常に雪片や薯蕷饅頭など数種類の上生菓子が並んでいるのに。そうか、この季節は桜の注文が大量に入るから、それしか作らないのね‥‥と勝手に決め込んでしまって、その時に、どうしてですかと質問していれば、閉店のことを教えてもらえたのかも知れないと思うと悔しくなる。

それから十日ほど後、フェイスブックで偶然うさぎや閉店のニースを知った。何とかあと二回でも三回でも、この世から消えてしまう前にあの練切を食べておきたい。ゴールデンウィークは混むだろうと予想して、4月15日週の平日の朝、いつも通りまず電話をかけると、自動音声の回答で「すべての予約は締め切りました。直接のご来店のみお受けしています」という。
それで、とにかく店に向かったが、長蛇の列が出来ていた。あまりの人出のため警備員さんを雇ったらしく、店とは何のゆかりもない警備保障会社の制服を着た、お菓子のことには詳しくなさそうな中年の警備員さんが汗水たらして行列の監督をしていた。ああ、こんなにもうさぎやは愛されているのだ、と呆然と列に並ぶしかなかった。

けれど、悲しいことに、その日、練切は買えなかった。
うさぎやは何と言ってもどら焼きが一番の人気商品だ。店としては、「最後にどら焼きを食べたいんです!!!」という人々の切実な思いに答えるために、とにかくどら焼きを大量に作らなければならない。上生菓子は作るのに時間がかかるため、職人にもう余裕がないんです‥‥と、ようやく三十分ほど並んで店に入った時に教えてもらった。
それでも気を取り直して、せめてうさぎ饅頭を買って帰ろうと思った。これは二番目に人気のお菓子で、うさぎの形をした何とも言えずかわいい薯蕷饅頭だ。母の好物で、私も好きだからよく二人でおやつに食べていた。けれどそれさえももう売り切れだという。私は半べそ顔になり、唯一買えた鹿子を買ってすごすごと帰宅するしかなかった。
       *
それでも、もう一度、ゴールデンウィーク明けにうさぎやに行った。
もう練切を食べられないことは仕方がない。せめて最後にうさぎ饅頭を買って母の遺影に供え、空の上の母と美味しいねとお喋りして食べたいと思った。
日にちはもちろん平日を狙った。休日はもう到底無理に違いないけれど、平日ならきっとまた三十分ほども並べば買えるだろう‥‥駅から早足で商店街に入ると、店の前には誰も並んでいなかった。ああ、良かった。人波のピークは過ぎたのだ、と胸をなでおろした時、横からあの警備員さんが現れた。
「皆さんに、あちらの公園に並んで頂いています」と言う。「二時間ほどかかると思います」
それで、もう、あきらめて家に帰るしかなかった。二時間並んでうさぎ饅頭が買えるのならいいけれど、売り切れてしまうかも知れない。しかも今、あまり体調がすぐれず無理も出来ない。何もかも、見通しが甘過ぎた自分が悪いのだ‥‥
      *
実は、うさぎやに行くと、いつも帰りには商店街の先の河北病院に寄っていた。母が肺がんの化学療法と、また、もう一つの持病の治療のために通っていた病院だった。2017 年からは認知症が始まり、予約手続きや薬の受け取りを失敗するようになったために、毎月、私が付き添って通っていた。
やがて2021年には母は寝たきりになり、それからは介護タクシーをチャーターして、私は車椅子を押して毎月各科やら検査室やらを必死で回ることになった。廊下の曲がり角一つ一つに、介護の思い出がびっしりと詰まっている。
それなのに、あれほどつらく悲しい日々だったのに、院内を歩いているとまだ母と一緒にいるような気がして、車椅子を押して一緒に歩いているように思えて、いつも用もないのにしばらくぶらぶらと、うさぎやの袋を下げて歩き回ってしまうのだ。
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けれど、その3月28日に訪ねた時、近くの広大な空き地に巨大なクレーンが建っていた。掲示板を見ると「河北病院新院建設工事」と書かれている。
これまでは、三つの病棟が時代を追ってばらばらに建てられ、それらを渡り廊下でつないだ複雑きわまりない構造の、そしてだいぶ古びた病院だった。けれどどうやらぴかぴかの高層インテリジェントビル病院に生まれ変わるらしい。患者さんや、その患者さんに付き添う家族のためには、もちろんその方が良いに決まっているのだけれど‥‥

うさぎやも閉店して、河北も新しくなって、もう、阿佐ヶ谷にママの思い出は何もなくなってしまう。そう思うとたまらなく悲しくなった。
もちろん、街も変わるし、人も変わっていく。この世界に変わらないものなんて何もない、と鴨長明の昔から言われているしそんなことは知っていたけれど、知っていたことと実際に感じることとは違うのだ。もう阿佐ヶ谷なんて来ないよ、と意味不明にやさぐれてその日は駅まで歩き、それでも、最後にもう一度食べたいと二度までも足を運んだのにうさぎ饅頭さえ食べられないまま、私と阿佐ヶ谷の縁は切れようとしているのだった。
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上の写真は、2年前の2月に、うさぎやさんの春の初めの季節の定番、うぐいすの練切を撮ったもの。おそらくほんのりと抹茶を練り込んでいて美味しく、梅の模様の薩摩焼の茶碗とともに頂くのが毎年の楽しみだった。
そして、冒頭の写真は、最後に桜の練切を買った、今年3月28日のウィンドウ。
桜の練切とうさぎ饅頭が飾られていて、今となれば何だか私の恨みの結晶のような一枚になってしまったのだけれど、やはり撮っておいて良かったと思う。
人生の他の数々の思い出と同じように、本当に美味しかった食べもののその味の記憶は、一生、胸に残ると思う。そして柔らかくあたたかな春の霧のように、ゆっくりと口中によみがえって来る。
うさぎやさん、ありがとう。長い間、杉並と、その周りの地域に住む私たちの毎日に、小さな、けれど生きる支えとなる楽しみを運んでくれた。長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとう。

花と歌と猫と映画、生存報告 2024/05/14



しばらくSNSから遠ざかっていたので、生存報告を。
特に何か理由があった訳ではなく、仕事の原稿が重なると更に文章を書くのは脳がさすがに疲れてしまう‥‥というただそれだけのことで、若干の体調不調はあるものの元気にしているので、ご安心ください。
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基本は家にいて、原稿を書いたり、構成を考えたり。
上の写真は、少し前に庭の白山吹が満開になったので、床の間に生けたもの。
白山吹はとても好きな花の一つで、敢えて同じ白磁の花器に生けてみた。
北海道で作陶されている高橋里美さんの手になるもので、中肉中背ほどの白磁の花器がほしいな、でもお高いし‥‥と思っていたら、たまたまお茶に入った青山Maduで見つけ、しかもびっくりするほどお安く、即決で購入した。
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後ろのお軸は、絵更紗の大変しゃれた短冊掛けで、父方の祖父の遺品の中にあった。「と志子描」と箱書きがあり、祖父は大学教授で女性のお弟子さんも多かったので、そのどなたかが贈ってくださったものではないかと思う。
そのお軸に、太田垣蓮月の短冊を掛けた。コロナ禍中に気がくさくさしていた時に、古書店のサイトから購入したもので、「あられ」と題された歌が書かれている。崩し字が読めないため、実は内容は分かっていないのだけれど、「あられを詠んだ歌って、何だかいいな」と、ただそれだけで購入した。女性の手になるお軸に、女性の文字を掛けたいという思いもあった。
読める方、ぜひ読み下しをお願い致します!
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少し前に皮膚がんの手術で左前脚の指を一本切除した猫のチャミは、その後は元気いっぱいに暮らしている。私を追い越して階段を駆け上ったり、棚から棚へ大ジャンプをしたり。今思えば、がんが進行していた頃は、やはり指が痛かったのだろう、動きがおとなしかった。何だか若返ったようで、嬉しくて涙ぐんでしまう。
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上の二枚の写真は、仕事をしている私の机の下で寝ているところと、おもちゃで遊びながら寝てしまったところ。食欲もものすごく、がんで痩せたのにかなりリバウンドしている‥‥
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一本、中国映画も観た。最も愛する俳優、トニー・レオン主演の「無名」。
日本軍、汪兆銘政府、共産党、それぞれのスパイがうごめく1940年代上海の汪兆銘政権内部を描いた作品で、つまりはアン・リー監督の「色、戒(ラスト・コーション)」とまったく同じ題材を扱っている。実はこの汪兆銘政権で私の母方の曾祖父が経済顧問を務めていた(日本政府から派遣された)。個人的に長く関心を持ち続けている時代だ。

「ラスト、コーション」の公開時、汪兆銘政権という、中国人にとっては政治的に非常に微妙な題材を扱っていたためか、主演の湯唯(タン・ウェイ)が数年にわたり謹慎状態に置かれるという事件があった。しかし、もう一人の主演俳優であるトニー・レオンは変わらず活躍が続き、不可解とも言われていた。
その同じテーマを描く作品に再びトニーが出演するのは政治的にかなり冒険ではないか、と心配して足を運んだが、うすうす予想していた通り、結局、勝つのは栄光の共産党!という方向でまとめられていた。まあ、実際勝ったのだけれど、今の中国の検閲体制ではこう描くしかないのだろう。

そんな中で、トニーの演技は、相変わらず化け物のように素晴らしい。
特に、冒頭、共産党からの寝返り者を尋問する場面。相手を安心させようと温厚な態度を装う汪兆銘政権幹部、という難シチュエーションを神業的演技で表現している。この一場面だけでも代金を払う価値がある。
映画自体は、冒頭に述べたように、日本軍、汪兆銘政府、共産党、三者のスパイがそれぞれ自分の立場を隠して駆け引きを繰り広げ、誰が裏切り者なのか二転三転して分からないところに面白さがある。日本で言う〝考察〟系の作品に当たる。
ただ、その謎の提出のし方が、時間軸をばらばらにした編集で観る側を煙に巻く手法に頼っているところもあり、つまるところは娯楽映画。人間性の深淵を描き出した「ラスト、コーション」には遠く及ばない。けれど、娯楽映画としては上質の作品だと思う。他の俳優たちの演技も素晴らしかった。
それにしても、トニーが暗い顔をして執務室に座っていると、どうしても「ラスト、コーション」の易(イー)に見えてしまい、頭が混乱してしまう一本でもあった笑。
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時には人生から小さな贈りものも届く。
SHIPSの顧客向けキャンペーンに当選し、バッグが届いた。ケリーバッグのデザインをナイロン素材で作ったもので、とてもハンサム。デニムやだぶっとしたワンピなど、自分の好きなスタイルに合いそうで嬉しい。
SHIPSには、井の頭公園の手前に店舗があった時代からずっと通って来た。一年に一、二枚買う程度だけど、時にはこんなお返しももらえるのだ。
‥‥という訳で、変わらず低め安定(?)に生きている。また思い出したように更新するので、時々生存確認に来て頂けますよう。

母を偲ぶ会(三)当日のきもの篇 2024/04/10



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母を偲ぶ会には、きもので参加した。
母がとても気に入っていた、紬地の訪問着。「しょうざん」生紬の更紗模様シリーズの一枚で、母はこのシリーズが大好きで、単衣の訪問着も持っている。今回の会は立食パーティー形式だったので、ドレスコードとしてもピッタリだと思いこちらを択んだ。
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上の写真は、きものに寄ったもの。
遠くからは無地に見える地の部分には、ろうけつ染で淡い水色の氷割れ模様が施されている。
その氷割れの場に、型染で小ぶりの更紗模様が表されている。墨色一色で、すっきりとまとめいるところがいい。水色×黒もとても好きな組み合わせだ。洋服ではあまりしない組み合わせだけれど、きものではとても映える。浮世絵中に時々見かけることがあり、隠れた日本的配色なのではないかと思っている。

帯は、洛風林の格子模様の袋帯を合わせた。
これまでは紺色地の帯を合わせていてそれも悪くはないのだけれど、格子の帯ならよりしゃれた姿になるのではと思っていた。それで、数カ月探してやっとこの帯を見つけた。水色×茶色も大好きな配色だ。やはり日本的な配色だと思っている。
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さて、このきものと帯に、どんな帯締めを入れるか。
実は、帯を入手した時最初にぱっと思い浮かんだのは、上の写真のような焦げ茶系の帯締めだった。これで全体がきりっと引き締まる。道明の冠組にこんな色がないかしらと思って訪ねてみると、ちゃんとあったので購入した。皀色(くりいろ)という色だ。
‥‥しかし、上の写真の通り、まだ封を切っていない。当日は別の帯締めを入れた。それが下の写真の一本で、桜色から水色への段染めの冠組↓
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実は、こちらは、母が古希を迎えた時、研究者仲間の皆様がお祝いで下さったもの。母は大喜びだった。お葬式の時、お棺に入れようかなとさえ思ったのだけれど、まだとてもきれいな染織品をこの世から消してしまうことが忍びず、私が使い続けることにした。今回の偲ぶ会には、その古希の際の皆様が全員参加されているので、ぜひお見せしたいとこちらを締めることにしたのだ。
帯揚げは、少しくすみのある玉子色の一枚。「美しいキモノ」の連載での取材の記念にと、「むら田」のあき子さんから頂いた。あき子さんが手づから板締めで染めたもので、絞りの白い線がアクセントになっている。
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↑ところで、上の写真は、今回着た襦袢。一般的な襦袢ではなく、紐を使わないシャツワンピース型で、衿がマジックテープ式になっている。
昨年夏の子宮卵巣摘出手術後、どうも内臓の位置が安定せず、年初に半年ぶりにきものを着た時、紐類の締めつけのせいか、帰り道にとてつもなく気分が悪くなってしまった。
更に二月上旬からは大腸付近に強い痛みが出るようになり、実は、腸のCTスキャンと胃カメラの検査を受けていた(その結果はまた後日の投稿にて)。
それでも、今回、どうしても母のきもので参加したかった。それでとにかく紐を一本でも減らそうと、この襦袢にたどり着いたのだ。「くるり」の商品で、「衿秀」の「きらっく」の替え袖を取り寄せてざくざくと縫い付けている(下の写真)↓
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ちなみに、もともとの衿がどうも安っぽくて気に入らず、仲良しの着付け師 奥泉智恵さんに依頼して、上から絹の半衿を掛けてもらってもいる。(マジックテープを避けて縫うことが、不器用No1の私には逆立ちしても無理だったため)

さて、これで腹部を最も強く締めつける襦袢の紐をなくすことが出来た。更に腰紐も完全に腰骨の上で締めれば、内臓にかかる負担は限りなく少なくなる。
しかし、その新しい着付けを、自分一人で、しかも会に間に合うように仕上げられる自信が、ない‥!それで友人の吉田雪乃さんに助けを求めることにした。
きもの好きの方ならご存じの通り、雪乃さんは、きものの色合わせ診断を中心に、着付け、草木染、和の化粧など、きもの周りの様々な学びと体験とを提供する「伝統色彩士協会」を主宰している。会員には着付け師さんもいらっしゃるので、どなたか派遣してもらえないかと依頼したのだ。
当日は雪乃さんの一番弟子の一人という川口恵美子さんが来て下さった。ふだん私はほとんど補正を入れないのだけれど、一目体型を見るなり、
「腰回りにタオルを入れてくびれをなくしましょう。その方が帯を柔らかく締めることが出来ますから」
と、てきぱきとタオル4枚で補正を当ててくれた。そしてほとんど締めつけのない、けれどすっきりとした姿に着付けて下さった。
その間わずか30分ほど。たぶん川口さんにとっては、着付け師人生で一番くらいの〝ゆる着付け〟だったと思う。それでも帰宅まで4時間余りの間、まったく着崩れることもなく、そして体調も何一つ問題なく、大切な大切な会を無事に、楽しく過ごすことが出来た。どんなに感謝しても感謝し切れない。
そして、今回、新しい着付け法で無事に過ごせたことで、再びきものを着られるという希望が見えて来た。もちろん、新着付けを身につけるためにはたくさんの練習が必要だ。でも、こんな千本ノックならむしろ楽しい。同じ悩みを持つ人のためにも、いずれレポートしたいと思う。

母を偲ぶ会(二)記念の品 2024/03/28



母を偲ぶ会では、参加くださった皆様に記念の品を差し上げた。
一つは大倉陶園の小皿で、もう一つは、特別に誂えた上生菓子。
どちらも母を思い出して頂くよすがとなるよう、母にちなんだ意匠のものを準備した。
元来、私は、何かしらの会の趣旨に添って記念品を準備する、という行為が好きだ。それはおそらくそこに〝ストーリーを考える〟という要素があるからなのだと思う。今回のストーリーを見て頂けたらと思う。  
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小皿は、大倉陶園の定番模様の一つである「プチ・ローズ」シリーズから択んだ。直径15センチほどで、チョコレートなどの小さなお菓子や、食事で使うのなら、オードブルなど小さなおつまみを載せるのに適していると思う。女性の方だったらアクセサリー置きにするのも良いかも知れないと思って択んだ。こちらを二枚組にして差し上げた。
プチ・ローズを択んだのは、母が、この柄のモーニングカップで毎朝ミルクコーヒーを飲んでいたからだ。上の写真の右側に写っているのがそのカップで、二十年近く使っていたから、よく見るとカップの縁にほどこされていた金が剥げてしまっている。
左側の、今回用意したお皿には、もちろん金がきれいに載っている。この日の会に参加頂いた方々は特に母と親しかった方ばかりで、お酒好きの方も甘いもの好きの方もいらっしゃるから、時々母を思い出して使って頂けたらいいなと思っている。
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ところで、このお皿を、今回は日本橋の三越で発注したのだけれど、ちょっと感動したことがあった。
店員の方に会の趣旨を説明すると、「では、包装紙は青色のもの、お持ち帰り用の紙袋も黒一色のものに致しましょう」と提案頂いたのだ。
三越の包み紙と言えば、ピンクがかった強いレッドの、水玉のような気泡のような抽象模様が紙いっぱいに飛び跳ねているあのデザインが思い浮かぶ。日本人なら誰でも目にしたことがある包装紙だろう。その青色版があるということを、今回初めて知った。慶弔の弔の用途の品を包む時のために、静かな青色バージョンがちゃんと用意されているのだ。
それは、平成になって登場した森口邦彦デザインの紙袋も同様で、本来は規則的に点在する赤の四角模様が黒で表現され、全体がモノトーンとなっている。いかにも日本人らしい、老舗のこんな心配りにはぐっと来てしまう。
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そして、もう一つの記念の品の和菓子は、この数年大変親しくしている、地元吉祥寺の茶の湯菓子店「亀屋萬年堂」さんで誂えた。
〝茶の湯菓子店〟とは、文字通り、茶席の菓子だけを専門に作る菓子店のことで、店舗は持たず、茶会の亭主の相談を受け、会の趣旨に沿ったその日一日のためだけの菓子を作る。当日茶会の水屋まで届けてくれるのだ。
亀屋さんは、ルーツは京都で、明治維新とともに東京へやって来た。飯田橋と銀座にもまったく同じ名の亀屋萬年堂という店があるが、東京移転以後に分かれた親戚だとのこと。このような筋目正しいお店が地元にあるのは何てありがたいことだろう!今回のお菓子も、ぜひとも亀屋さんで誂えたいと思ったのだ。
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出来上がったお菓子は、二つ。素晴らしい意匠に作って頂き、食べるのが惜しいくらいだった。
まず、右の練切は、黒い薔薇の花をかたどったもの。
母の結婚二年目の年、吉祥寺の今の家を建てた時、遠縁の大叔母がお祝いにと黒薔薇の苗をプレゼントしてくれた。その苗をフェンスにからませて育て、母は自分の花と見なしてとても大切にしていた。大好きだった宝塚の機関誌に劇評を投稿する時のペンネームも「黒薔薇」だった。
だから、和菓子にしてはなかなか異例の意匠ではあるけれど、どうしても黒薔薇の練切にしたくて、おそるおそるご主人の長野祐治さんに相談してみた。快く引き受けてくださって、上生菓子作りの担当は長男の貴弘さんだから、現代の感覚もどこかにただよわせながら、品格高く、美しく仕上げてくださった。お味もこくがありつつも控えめな甘さで、本当に、すべてが素晴らしい出来栄え。大変大変嬉しかった。

もう一つ、左の薯蕷饅頭には、蝶の焼き型を押して頂いた。日本には古くから蝶を死者の使いとみなす考え方があるから、大事にしていた黒薔薇の傍らに母がやって来た‥‥というストーリーをつむいでみたのだ。
プチ・ローズのゆかりとも合わせ、そんなことをつらつらとまとめたお手紙もお付けして、会の最後に、皆様にお渡しした。皆様のためにお作りしたものだけれど、その準備の過程を私が一番楽しんだと思う。なかなかいいじゃない、これなら私の面目も立ったわ、と空の上で母が言っていてくれているならいいなと思う。美しいものが大好きな母だったから。

母を偲ぶ会(一)会を終えて 2024/03/20



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先々週の日曜日、美術史学界の、特に母と親しかった友人の皆さんが偲ぶ会を開いてくださり、私が家族代表で出席した。
場所は母の気に入りの店の一つだった吉祥寺の聘珍楼で、私は、母が十年ほど前に一目惚れで購入した紬訪問着を着て参加した(きものの詳細は、後日、別の回のブログにて)。

発起人は、東京学芸大学名誉教授で現在は遠山記念館館長の鈴木廣之さんと、母が生前奉職した三井記念美術館主任学芸員の清水実さん。
実践女子大学名誉教授で秋田県立近代美術館館長の仲町啓子さん、国立西洋美術館前館長の馬渕明子さん、先ごろ静嘉堂美術館の新館長に就任されたばかりの安村敏信さん、学習院大学名誉教授の佐野みどりさん、実践女子大学教授の宮崎法子さん、美術ライターの州之内啓子さん、東京国立博物館元研究員の田沢裕賀さん、十文字学園大学教授の樋口一貴さん、清泉女子大学教授の佐々木守俊さんがお集まりくださった。
皆さん、本当は「先生」と呼ばなければならない学界の重鎮や気鋭の研究者の方々ばかりだけれど、私は幼い頃から親しく接して育ったので「さん」で呼んでいる。
     *
さて、当日は、皆さん、母と本当に親しかった方ばかりなので、温かい、気のおけない会になって、それが何とも言えず嬉しかった。
宮崎さんと佐野さん曰く、
「一緒に旅行すると、周子さんはトランクからとにかく荷物をぜーんぶ出しちゃって」
「そうそう。それを部屋中のあちこちの引き出しに分けてしまうのね」
などといった、友だちならではのエピソードがあれこれ語られたり、母はとにかく滅法お酒に強かったため、酒豪伝説エピソードも数々飛び出した。
とある偉い先生が母につぶされ、転んだか何かして眼鏡が壊れてしまった話、論客として有名な若手研究者(当時)が母との飲み比べに挑戦したものの破れ去ったエピソードなどなど‥‥
皆さんが口を揃えておっしゃるのが、「天真爛漫な人だった」‥‥本当に、娘の私から見ても、人を出し抜いたり裏をかこうといったことを思いつきもしない、正直一本槍の母だった。そのために資料の獲得などで損をした面もあったかも知れないけれど、誰からも好かれ、「周子さんといるととにかく楽しかった!」と振り返ってもらえるのだから、やはり良い人生だったのだと思う。
    * 
私からは、会場に、少女時代から始まる母の珠玉の(と私が思う)写真を集めたアルバムを持参した。
たまたま仕事の締め切りと重なったために最後は徹夜で写真を選び、更にカードにキャプションを書いて写真の下に添え、朝、鳥の声を聞きながらもはや頭は朦朧としていたけれど、皆さんに大変好評だったので、頑張った甲斐があった。
下の写真はその第一ページ目。キャプションは、「小原周子、十五歳。初々しい、少女時代の姿です」‥‥
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そして、母の死から一年あまりという時期に行われたこの会が終わり、今、どこか虚脱状態に陥っている自分がいる。
そもそも母はとにかく人と集うことが好きな人だったから、本当はお葬式をするべきだった。
けれど四年間、私のすべてを捧げてかなりかなり壮絶な介護を続け、それが突然に終わってしまった空白の中で洩れることなく友人知人の方々に連絡をして葬儀を準備し、当日はご参列頂きありがとうございました、ありがとうございましたと頭を下げ続ける気力が、あの時、私の中に一滴も残っていなかった。
もちろん、当時はまだコロナ禍も完全に収束していなかったから、うちのお葬式から感染者を出すようなことがあってはいけないという考えもあって、それで密葬にしようと父と決めたのだけれど、これで良かったのかという思いはずっと胸に引っかかっていた。
社交的だった母のことを考えれば、あまりにも寂し過ぎたから。

だから、鈴木さんと清水さんが話し合って下さり、会を持ちたいと申し出て下さった時、本当に嬉しかった。
実は私は二月の頭ほどから手術の後遺症が出て体調がすぐれず、けれど、どうしてもどうしても偲ぶ会に出るんだ!という思いで(家族代表の私が出席しなければ会は流れてしまう)、食事をコントロールし、重いものは一切持たず、長い時間も歩かず、とにかく体調に気をつけて気をつけて過ごしていた。そしてアルバムを作り、出席頂く皆様へどんな記念品をお渡ししようかとあれこれ知恵を絞って準備を進めていた(記念品については、後日のブログで)。華やかな、楽しいことが好きだった母のために最後に私が出来ることだった。
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だから、今、会が終わり、もう一度母を亡くしてしまったようなむなしさの中にいる。
もう本当に私の介護は終わり、もっともっと母のために何かをしてあげたいけれど、出来ることはもう何もないのだ、と、夜、一人で部屋にいる時など、しみじみと悲しくなる。
けれど、一方で、今回皆様に集まって頂いたことで、どこかほのかな明るさが胸に宿ったことも感じている。それはやはり、母が本当に盟友と思っていた皆様にとても楽しく送り出してもらえた、そのことを実感したからだと思う。

人が一人亡くなった時、家族がその代理人のようになって、お悔やみを受け、生前はありがとうございましたなどと言う。それが昔から変わらない世の中の常だが、私はこの一年あまり、どこかおこがましさを感じていた。
何故ならば人は家族の中だけで生きている訳ではないし、家族だけのものでもないと思うからだ。家族にだからこそ言えないこともあるし、仕事や趣味の仲間とは、同じフィールドにいる者同士だけが分かち合える達成感や苦心がある。世の中には家族がすべてという人もいるかも知れないが、別にそれが最高の幸せである訳でもない、と私は思っている。人は本来もっと多面的な可能性を持つ存在だと思う。
だから、心から母を愛した私だけれど、今回、盟友だった方々がわいわいと母を振り返っている姿を見て、深く安堵する思いがあった。四年間、認知症という特殊な状況だったためにやむなく私が母を独占して来たけれど、やっと本来の母に戻って、仲間たちと陽気に楽しみ、そしてお別れをした。そんな気がしたのだ。
これでようやく母は本当に旅立って行った気がする。もう一度母に会いたい。どうして母はここにいないのだろう。その思いは変わらないけれど、これからは私も自分の人生を再び構築していかなければいけないのだ、と思い始めている。母のために出来ることは、もう本当に何もない。むなしさと不思議なすがすがしさがそこには同時に満ちている。