MAYA from West End

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*日記は日本語のみで、翻訳はありませんが、時々全文中国語の日記も書きます。
*日記の写真はデジタルカメラと携帯のカメラで撮影したものであり、作品写真ほどのクオリティはないことをご理解下さい。「本気で写真撮る!」と思わないと良い写真が撮れない性質なのです。

*這本日記基本上用日文寫、沒有中文和英文翻譯。可是不定期以中文來寫日記。請隨性來訪。
*日記的相片都用數碼相機或手機相機來攝影的、所拍的相質稍有出入、請諒解。我一直覺得不是認真的心態絕對拍不出好的東西。
© 2011 Maya Nishihata
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母を偲ぶ会(三)当日のきもの篇 2024/04/10



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母を偲ぶ会には、きもので参加した。
母がとても気に入っていた、紬地の訪問着。「しょうざん」生紬の更紗模様シリーズの一枚で、母はこのシリーズが大好きで、単衣の訪問着も持っている。今回の会は立食パーティー形式だったので、ドレスコードとしてもピッタリだと思いこちらを択んだ。
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上の写真は、きものに寄ったもの。
遠くからは無地に見える地の部分には、ろうけつ染で淡い水色の氷割れ模様が施されている。
その氷割れの場に、型染で小ぶりの更紗模様が表されている。墨色一色で、すっきりとまとめいるところがいい。水色×黒もとても好きな組み合わせだ。洋服ではあまりしない組み合わせだけれど、きものではとても映える。浮世絵中に時々見かけることがあり、隠れた日本的配色なのではないかと思っている。

帯は、洛風林の格子模様の袋帯を合わせた。
これまでは紺色地の帯を合わせていてそれも悪くはないのだけれど、格子の帯ならよりしゃれた姿になるのではと思っていた。それで、数カ月探してやっとこの帯を見つけた。水色×茶色も大好きな配色だ。やはり日本的な配色だと思っている。
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さて、このきものと帯に、どんな帯締めを入れるか。
実は、帯を入手した時最初にぱっと思い浮かんだのは、上の写真のような焦げ茶系の帯締めだった。これで全体がきりっと引き締まる。道明の冠組にこんな色がないかしらと思って訪ねてみると、ちゃんとあったので購入した。皀色(くりいろ)という色だ。
‥‥しかし、上の写真の通り、まだ封を切っていない。当日は別の帯締めを入れた。それが下の写真の一本で、桜色から水色への段染めの冠組↓
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実は、こちらは、母が古希を迎えた時、研究者仲間の皆様がお祝いで下さったもの。母は大喜びだった。お葬式の時、お棺に入れようかなとさえ思ったのだけれど、まだとてもきれいな染織品をこの世から消してしまうことが忍びず、私が使い続けることにした。今回の偲ぶ会には、その古希の際の皆様が全員参加されているので、ぜひお見せしたいとこちらを締めることにしたのだ。
帯揚げは、少しくすみのある玉子色の一枚。「美しいキモノ」の連載での取材の記念にと、「むら田」のあき子さんから頂いた。あき子さんが手づから板締めで染めたもので、絞りの白い線がアクセントになっている。
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↑ところで、上の写真は、今回着た襦袢。一般的な襦袢ではなく、紐を使わないシャツワンピース型で、衿がマジックテープ式になっている。
昨年夏の子宮卵巣摘出手術後、どうも内臓の位置が安定せず、年初に半年ぶりにきものを着た時、紐類の締めつけのせいか、帰り道にとてつもなく気分が悪くなってしまった。
更に二月上旬からは大腸付近に強い痛みが出るようになり、実は、腸のCTスキャンと胃カメラの検査を受けていた(その結果はまた後日の投稿にて)。
それでも、今回、どうしても母のきもので参加したかった。それでとにかく紐を一本でも減らそうと、この襦袢にたどり着いたのだ。「くるり」の商品で、「衿秀」の「きらっく」の替え袖を取り寄せてざくざくと縫い付けている(下の写真)↓
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ちなみに、もともとの衿がどうも安っぽくて気に入らず、仲良しの着付け師 奥泉智恵さんに依頼して、上から絹の半衿を掛けてもらってもいる。(マジックテープを避けて縫うことが、不器用No1の私には逆立ちしても無理だったため)

さて、これで腹部を最も強く締めつける襦袢の紐をなくすことが出来た。更に腰紐も完全に腰骨の上で締めれば、内臓にかかる負担は限りなく少なくなる。
しかし、その新しい着付けを、自分一人で、しかも会に間に合うように仕上げられる自信が、ない‥!それで友人の吉田雪乃さんに助けを求めることにした。
きもの好きの方ならご存じの通り、雪乃さんは、きものの色合わせ診断を中心に、着付け、草木染、和の化粧など、きもの周りの様々な学びと体験とを提供する「伝統色彩士協会」を主宰している。会員には着付け師さんもいらっしゃるので、どなたか派遣してもらえないかと依頼したのだ。
当日は雪乃さんの一番弟子の一人という川口恵美子さんが来て下さった。ふだん私はほとんど補正を入れないのだけれど、一目体型を見るなり、
「腰回りにタオルを入れてくびれをなくしましょう。その方が帯を柔らかく締めることが出来ますから」
と、てきぱきとタオル4枚で補正を当ててくれた。そしてほとんど締めつけのない、けれどすっきりとした姿に着付けて下さった。
その間わずか30分ほど。たぶん川口さんにとっては、着付け師人生で一番くらいの〝ゆる着付け〟だったと思う。それでも帰宅まで4時間余りの間、まったく着崩れることもなく、そして体調も何一つ問題なく、大切な大切な会を無事に、楽しく過ごすことが出来た。どんなに感謝しても感謝し切れない。
そして、今回、新しい着付け法で無事に過ごせたことで、再びきものを着られるという希望が見えて来た。もちろん、新着付けを身につけるためにはたくさんの練習が必要だ。でも、こんな千本ノックならむしろ楽しい。同じ悩みを持つ人のためにも、いずれレポートしたいと思う。

母を偲ぶ会(二)記念の品 2024/03/28



母を偲ぶ会では、参加くださった皆様に記念の品を差し上げた。
一つは大倉陶園の小皿で、もう一つは、特別に誂えた上生菓子。
どちらも母を思い出して頂くよすがとなるよう、母にちなんだ意匠のものを準備した。
元来、私は、何かしらの会の趣旨に添って記念品を準備する、という行為が好きだ。それはおそらくそこに〝ストーリーを考える〟という要素があるからなのだと思う。今回のストーリーを見て頂けたらと思う。  
   *
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小皿は、大倉陶園の定番模様の一つである「プチ・ローズ」シリーズから択んだ。直径15センチほどで、チョコレートなどの小さなお菓子や、食事で使うのなら、オードブルなど小さなおつまみを載せるのに適していると思う。女性の方だったらアクセサリー置きにするのも良いかも知れないと思って択んだ。こちらを二枚組にして差し上げた。
プチ・ローズを択んだのは、母が、この柄のモーニングカップで毎朝ミルクコーヒーを飲んでいたからだ。上の写真の右側に写っているのがそのカップで、二十年近く使っていたから、よく見るとカップの縁にほどこされていた金が剥げてしまっている。
左側の、今回用意したお皿には、もちろん金がきれいに載っている。この日の会に参加頂いた方々は特に母と親しかった方ばかりで、お酒好きの方も甘いもの好きの方もいらっしゃるから、時々母を思い出して使って頂けたらいいなと思っている。
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ところで、このお皿を、今回は日本橋の三越で発注したのだけれど、ちょっと感動したことがあった。
店員の方に会の趣旨を説明すると、「では、包装紙は青色のもの、お持ち帰り用の紙袋も黒一色のものに致しましょう」と提案頂いたのだ。
三越の包み紙と言えば、ピンクがかった強いレッドの、水玉のような気泡のような抽象模様が紙いっぱいに飛び跳ねているあのデザインが思い浮かぶ。日本人なら誰でも目にしたことがある包装紙だろう。その青色版があるということを、今回初めて知った。慶弔の弔の用途の品を包む時のために、静かな青色バージョンがちゃんと用意されているのだ。
それは、平成になって登場した森口邦彦デザインの紙袋も同様で、本来は規則的に点在する赤の四角模様が黒で表現され、全体がモノトーンとなっている。いかにも日本人らしい、老舗のこんな心配りにはぐっと来てしまう。
    *
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そして、もう一つの記念の品の和菓子は、この数年大変親しくしている、地元吉祥寺の茶の湯菓子店「亀屋萬年堂」さんで誂えた。
〝茶の湯菓子店〟とは、文字通り、茶席の菓子だけを専門に作る菓子店のことで、店舗は持たず、茶会の亭主の相談を受け、会の趣旨に沿ったその日一日のためだけの菓子を作る。当日茶会の水屋まで届けてくれるのだ。
亀屋さんは、ルーツは京都で、明治維新とともに東京へやって来た。飯田橋と銀座にもまったく同じ名の亀屋萬年堂という店があるが、東京移転以後に分かれた親戚だとのこと。このような筋目正しいお店が地元にあるのは何てありがたいことだろう!今回のお菓子も、ぜひとも亀屋さんで誂えたいと思ったのだ。
    *
出来上がったお菓子は、二つ。素晴らしい意匠に作って頂き、食べるのが惜しいくらいだった。
まず、右の練切は、黒い薔薇の花をかたどったもの。
母の結婚二年目の年、吉祥寺の今の家を建てた時、遠縁の大叔母がお祝いにと黒薔薇の苗をプレゼントしてくれた。その苗をフェンスにからませて育て、母は自分の花と見なしてとても大切にしていた。大好きだった宝塚の機関誌に劇評を投稿する時のペンネームも「黒薔薇」だった。
だから、和菓子にしてはなかなか異例の意匠ではあるけれど、どうしても黒薔薇の練切にしたくて、おそるおそるご主人の長野祐治さんに相談してみた。快く引き受けてくださって、上生菓子作りの担当は長男の貴弘さんだから、現代の感覚もどこかにただよわせながら、品格高く、美しく仕上げてくださった。お味もこくがありつつも控えめな甘さで、本当に、すべてが素晴らしい出来栄え。大変大変嬉しかった。

もう一つ、左の薯蕷饅頭には、蝶の焼き型を押して頂いた。日本には古くから蝶を死者の使いとみなす考え方があるから、大事にしていた黒薔薇の傍らに母がやって来た‥‥というストーリーをつむいでみたのだ。
プチ・ローズのゆかりとも合わせ、そんなことをつらつらとまとめたお手紙もお付けして、会の最後に、皆様にお渡しした。皆様のためにお作りしたものだけれど、その準備の過程を私が一番楽しんだと思う。なかなかいいじゃない、これなら私の面目も立ったわ、と空の上で母が言っていてくれているならいいなと思う。美しいものが大好きな母だったから。

母を偲ぶ会(一)会を終えて 2024/03/20



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先々週の日曜日、美術史学界の、特に母と親しかった友人の皆さんが偲ぶ会を開いてくださり、私が家族代表で出席した。
場所は母の気に入りの店の一つだった吉祥寺の聘珍楼で、私は、母が十年ほど前に一目惚れで購入した紬訪問着を着て参加した(きものの詳細は、後日、別の回のブログにて)。

発起人は、東京学芸大学名誉教授で現在は遠山記念館館長の鈴木廣之さんと、母が生前奉職した三井記念美術館主任学芸員の清水実さん。
実践女子大学名誉教授で秋田県立近代美術館館長の仲町啓子さん、国立西洋美術館前館長の馬渕明子さん、先ごろ静嘉堂美術館の新館長に就任されたばかりの安村敏信さん、学習院大学名誉教授の佐野みどりさん、実践女子大学教授の宮崎法子さん、美術ライターの州之内啓子さん、東京国立博物館元研究員の田沢裕賀さん、十文字学園大学教授の樋口一貴さん、清泉女子大学教授の佐々木守俊さんがお集まりくださった。
皆さん、本当は「先生」と呼ばなければならない学界の重鎮や気鋭の研究者の方々ばかりだけれど、私は幼い頃から親しく接して育ったので「さん」で呼んでいる。
     *
さて、当日は、皆さん、母と本当に親しかった方ばかりなので、温かい、気のおけない会になって、それが何とも言えず嬉しかった。
宮崎さんと佐野さん曰く、
「一緒に旅行すると、周子さんはトランクからとにかく荷物をぜーんぶ出しちゃって」
「そうそう。それを部屋中のあちこちの引き出しに分けてしまうのね」
などといった、友だちならではのエピソードがあれこれ語られたり、母はとにかく滅法お酒に強かったため、酒豪伝説エピソードも数々飛び出した。
とある偉い先生が母につぶされ、転んだか何かして眼鏡が壊れてしまった話、論客として有名な若手研究者(当時)が母との飲み比べに挑戦したものの破れ去ったエピソードなどなど‥‥
皆さんが口を揃えておっしゃるのが、「天真爛漫な人だった」‥‥本当に、娘の私から見ても、人を出し抜いたり裏をかこうといったことを思いつきもしない、正直一本槍の母だった。そのために資料の獲得などで損をした面もあったかも知れないけれど、誰からも好かれ、「周子さんといるととにかく楽しかった!」と振り返ってもらえるのだから、やはり良い人生だったのだと思う。
    * 
私からは、会場に、少女時代から始まる母の珠玉の(と私が思う)写真を集めたアルバムを持参した。
たまたま仕事の締め切りと重なったために最後は徹夜で写真を選び、更にカードにキャプションを書いて写真の下に添え、朝、鳥の声を聞きながらもはや頭は朦朧としていたけれど、皆さんに大変好評だったので、頑張った甲斐があった。
下の写真はその第一ページ目。キャプションは、「小原周子、十五歳。初々しい、少女時代の姿です」‥‥
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    *
そして、母の死から一年あまりという時期に行われたこの会が終わり、今、どこか虚脱状態に陥っている自分がいる。
そもそも母はとにかく人と集うことが好きな人だったから、本当はお葬式をするべきだった。
けれど四年間、私のすべてを捧げてかなりかなり壮絶な介護を続け、それが突然に終わってしまった空白の中で洩れることなく友人知人の方々に連絡をして葬儀を準備し、当日はご参列頂きありがとうございました、ありがとうございましたと頭を下げ続ける気力が、あの時、私の中に一滴も残っていなかった。
もちろん、当時はまだコロナ禍も完全に収束していなかったから、うちのお葬式から感染者を出すようなことがあってはいけないという考えもあって、それで密葬にしようと父と決めたのだけれど、これで良かったのかという思いはずっと胸に引っかかっていた。
社交的だった母のことを考えれば、あまりにも寂し過ぎたから。

だから、鈴木さんと清水さんが話し合って下さり、会を持ちたいと申し出て下さった時、本当に嬉しかった。
実は私は二月の頭ほどから手術の後遺症が出て体調がすぐれず、けれど、どうしてもどうしても偲ぶ会に出るんだ!という思いで(家族代表の私が出席しなければ会は流れてしまう)、食事をコントロールし、重いものは一切持たず、長い時間も歩かず、とにかく体調に気をつけて気をつけて過ごしていた。そしてアルバムを作り、出席頂く皆様へどんな記念品をお渡ししようかとあれこれ知恵を絞って準備を進めていた(記念品については、後日のブログで)。華やかな、楽しいことが好きだった母のために最後に私が出来ることだった。
      *
だから、今、会が終わり、もう一度母を亡くしてしまったようなむなしさの中にいる。
もう本当に私の介護は終わり、もっともっと母のために何かをしてあげたいけれど、出来ることはもう何もないのだ、と、夜、一人で部屋にいる時など、しみじみと悲しくなる。
けれど、一方で、今回皆様に集まって頂いたことで、どこかほのかな明るさが胸に宿ったことも感じている。それはやはり、母が本当に盟友と思っていた皆様にとても楽しく送り出してもらえた、そのことを実感したからだと思う。

人が一人亡くなった時、家族がその代理人のようになって、お悔やみを受け、生前はありがとうございましたなどと言う。それが昔から変わらない世の中の常だが、私はこの一年あまり、どこかおこがましさを感じていた。
何故ならば人は家族の中だけで生きている訳ではないし、家族だけのものでもないと思うからだ。家族にだからこそ言えないこともあるし、仕事や趣味の仲間とは、同じフィールドにいる者同士だけが分かち合える達成感や苦心がある。世の中には家族がすべてという人もいるかも知れないが、別にそれが最高の幸せである訳でもない、と私は思っている。人は本来もっと多面的な可能性を持つ存在だと思う。
だから、心から母を愛した私だけれど、今回、盟友だった方々がわいわいと母を振り返っている姿を見て、深く安堵する思いがあった。四年間、認知症という特殊な状況だったためにやむなく私が母を独占して来たけれど、やっと本来の母に戻って、仲間たちと陽気に楽しみ、そしてお別れをした。そんな気がしたのだ。
これでようやく母は本当に旅立って行った気がする。もう一度母に会いたい。どうして母はここにいないのだろう。その思いは変わらないけれど、これからは私も自分の人生を再び構築していかなければいけないのだ、と思い始めている。母のために出来ることは、もう本当に何もない。むなしさと不思議なすがすがしさがそこには同時に満ちている。


クロワッサン「着物の時間」整理収納アドバイザー中山真由美さんの着物物語を取材しました 2024/03/08



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仕事のばたばたと若干の体調不良と今週末に開いて頂くことになった母を偲ぶ会の準備が重なって盆と正月が一緒に状態が続いておりまして、すっかりSNSから遠ざかっていましたが‥‥クロワッサン誌での連載記事が発売になっています。 
 
今月は、整理収納アドバイザーの中山真由美さんを取材しています。黒留袖でのご登場!
お嬢さんの結婚式でお召しになったこの黒留袖秘話と、着物初心者さんや着物を(頻繁にではなく)たまに着る方に向けた収納のコツもお話し頂きました。
皆さんの周りに、たまにしか着ないからこそ、着物や小物をどこにしまったか分からなくなって困っちゃうのよ〜なんて方がいらしたら、ぜひこのページをご紹介頂けたらと思います。
と言ってもお知らせが遅れた結果、書店にあるのは明日までなのですが‥‥明日まではまだあります!ウェブ版は永遠に!どうかご覧ください。

定期検査へ――癌サバイバーの日常 2024/02/04



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あっと言う間に今年ももうひと月が過ぎてしまった。今週は、子宮体癌手術後、2カ月に一度の定期検査があった。再発がないか、転移がないか、言ってみれば2カ月に一度の〝天からのテスト〟のようなものだ。癌サバイバーは皆このテストを受けている。

定期検査の日は、いつもより少し早く起きて杏林大学病院に向かう。着いたらまず地下の採血室へ直行する、という手順もすっかり身についてしまった。
採血室は常に野戦病院のように混んでいて、中に入るためだけに15分以上並ぶこともあるのだけれど、何故か今回は奇跡的にすいていた。半信半疑で入口の整理係の人を振り返り振り返りしながら中へ進む(ちょっと、まだ中に入れませんよ、と怒られないか心配なのだ)。
しかしすいているとは言え30人待ちほどではあるので、長椅子に座り、自分の番号が来たらスムーズに採血してもらえるよう、コートを脱いで待機する。目の前の採血ブースで、中に入ってからあわててコートを脱いでいる人を眺め、
「素人さんか‥‥」
と、ふっと笑みがもれてしまうベテランなのである。
     *
さて、無事採血が終わると、3階の婦人科へ上がる。今採血した血液の検査結果が出るまで1~2時間かかり、それまでは呼ばれないことももう承知しているから、受付に名前を通したらゆったりトイレに行ったり、自動販売機で飲み物を択んだり、持ち込んだ文庫本を読んだりする。ここでの過ごし方ももう板について来た。

時々本から目を上げ、通路を行き来する人を眺める。
3階には整形外科や麻酔科(手術前に必ず麻酔科でレクを受ける)などもあるから、多くの人が行き来している。中でも私が目を留めてしまうのは、老齢の親と付き添いの中年の娘、或いは息子という二人組だ。たいていは親が車椅子に乗っていて、子がそれを押している。親の表情がぼんやりしていればおそらく認知症を患っている方だろう。そしてそういう二人組を見ていると、不意に泣いてしまいそうになる。2年前の私の姿だからだ。
もちろん、彼らは、私が泣きそうになっていることになど気づかな。その理由も私には分かる。周りを見ている余裕なんてないからだ。両手を開けておくために斜め掛けのバッグを下げ、中には親の診療カード、保険証、介護保険症、介護タクシーの電話番号カード、自分の分のペットボトルと親の分のペットボトル、万が一のための替えオムツ‥‥などなどがぎっしりと詰め込まれている。
人にぶつからないように慎重に車椅子を押して、突然医師からあそこへ行けと指示された「何とか室」を必死で探して前に前に通路を進んでいるその人の背中に、頑張ってね、とエールを送る。もちろん声は出さずに。
     *
やがて診察室に呼ばれ、まず、この2カ月間の体調を先生に報告する。左腿のつけ根の腫れぼったい感覚が、最近は消えたこと。でも右のつけ根にはまだ残っていること。出血やおりものはないこと。重いものを持つと右の傷口の奥の方が痛むこと。かたかたと先生がPC上のカルテに打ち込んでいく。
お正月にきものを着たら、胃なのか腸なのか、腰紐で圧迫されたせいかとてつもなく不調になってしまったことも話したが、子宮・卵巣摘出との因果関係は考えられないと言われ、がっかりしする。原因が分からないと対策の立てようがないが、これは私には大問題なので、着付け方法を変えるなど、様々に試して様子を見ていこうと思っている。
その後、例の婦人科の自動大股開き椅子に座り、触診とエコー検査を受ける。内部に腫れはなく、手術痕にも化膿などの異常はないとのこと。いつものようにその場で教えて頂く。そして小刀状の器具で、わずかに膣内部の組織を削り取る。しくっとした、ごくかすかな痛み。この組織が細胞診検査に回される。
     *
再び先生の席に戻り、2ケ月前に採った細胞診の結果を見せてもらう。ここが今日の診察のハイライトだ。異常なし。今のところ再発はない。続けて今日の血液検査の結果票も広げられ、転移がある場合異常が出ることが多い幾つかの項目がすべて正常値だと説明を受ける。
そう、今回の天のテストは通過したのだ。
     *
2ケ月後の予約を取って、病院を後にした。体調がいい時はバスに、疲れている時はタクシーに乗る。車窓に井の頭公園が見えて来ると「帰って来た」と思う。まるで旅から帰って来た時のように。
それからスコーンを食べに行く。定期検査の後は吉祥寺で何か好きなものを食べて帰ることに決めていて、今回は公園入口の紅茶専門店に寄った。出来たての、ほくほくのスコーン。文庫本の続きをゆっくりと読んで、日常が帰って来る。とにかくあと2ケ月は命が延びたのだ。公園の池の水面が冬の空気に澄みわたっている。
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クロワッサン「着物の時間」ちぇらうなぼるた店主 大山和子さんの着物物語を取材しました 2024/01/30



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マガジンハウス「クロワッサン」での連載「着物の時間」、今月は、青山のリサイクル着物店「大山キモノ ちぇらうなぼるた」店主 大山和子さんの着物物語を取材しました。
かつて表参道の真ん中辺りにあった真っ赤な柱の中華風の骨董店「オリエンタルバザー」をご記憶の方も多いかと思います。その二階にあった古裂店「大山キモノ」が、「ちぇらうなぼるた」の前身。大山さんのお母様が、戦後間もなくから始めました。
母から娘へ、二代に渡る物語を取材しました。ぜひご高覧ください。
第一特集「反り腰、巻き肩、スマホ首」も必見です!
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猫の手術、その後 2024/01/26



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2週間前に我が家の白猫チャミの左前足癌手術について投稿したところ、たくさんのDMやフェイスブックコメント、また、仕事の取材先でも温かい言葉を頂いた。お礼も兼ねて今日はご報告の投稿を。皆様本当にありがとうございました。

幸い予後は順調で、チャミは元気を取り戻している。
退院から六日目までは、やはり手術痕が相当痛むのか、また、手術を受けたことの精神的ショックも大きかったのだろう、〝自分のことで精一杯〟というかんじでひたすら眠り続けていた。ふだんなら「お昼寝から起きたよ!」「今からまた寝るから添い寝して!」と何かと甘えに来るのに。
寂しいけれどチャミのしたいようにさせてあげるのが一番、と、時々ごはんを持って行くのと頭を撫でに行くだけで、私も父もそっとしておいていた。ところが六日目の夕方、私が和室でPCに向かっていると、突然にゃーにゃー鳴いて部屋に入れろとやって来る。
「僕は夕方お姉ちゃんの足の間に入るんだから!いつもそうでしょ!まったくもう!分かってるよね!ほらほら!」
というかんじでぐいぐい足の間に入り、そのまま熟睡。そこから不思議とすべてが元に戻ったのだった。

もちろん小指は一本なくなってしまったが、もう調子をつかんだのかびっこを引くこともなくすたすたと歩き、気に入りの暖房器をつけてほしい時など、こっちこっちと小走りに私を誘導することもある。ソファの背もたれに鳥のようにとまっていたり(お気に入りの姿勢)、様々な椅子からも元気に飛び降りて、ごはんももりもり食べて。知らない人が見たら、指が一本ないなんてまったく分からないと思う。

実は、昨年夏、私が癌の手術のために八日間入院した時、チャミは摂食障害になってしまった。私の帰宅から二週間ほど、極端に食が細くなって、病院に連れて行かなければいけないかと心配したほどだった。
たぶん私の不在がとてつもなくショックで、その混乱の中に突然私がまた戻って来て今度はほっとし過ぎて、精神のバランスが崩れてしまったのだと思う。そんな風に繊細なチャミだから、あの時免疫ががくんと落ちてしまって、そして癌が発生したのかな、などと考え込んでしまうこともある。
ごめんね、チャミ、と欠けてしまった手を見ると悲しくなるが、でも、
「指なんか一本くらいなくたって、僕は何ともないもんねー」
とチャミがプライド高くすたすた歩き回っているのだから、こちらも合わせなければいけない。涙を拭いてぎゅっと抱きしめると、抱っこは嫌いなチャミだから、ヤだー!と生意気にももがく。うめばち一つ欠けただけの、変わらない毎日が続いている。

猫の手術 2024/01/15



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11月の終わり頃、我が家の白猫チャミの左前足のうめばちの一つが大きく腫れていることに気づいた。慌てて病院に連れて行くと、先生は、悪性腫瘍、つまり、がんではないかと言う。
すぐに組織を取る検査を受けたが、異常は認められないという結果が出た。けれど先生は出来ればもう一段詳しい検査をした方がいいと薦める。悩んだ末に、12月の終わり、うめばちの一部を小さく切り取る検査手術を受けた。チャミはもう十五歳のおじいちゃん猫だから体に負担は大きいし、臆病者で気持ちの細やかな子だから、帰宅後数日は見たこともないような険しい顔つきになってしまった。いつも隙あらば私の膝に乗ろうと狙っているのに、「一人で寝たい」と、隣りに敷いた電気毛布の上で寝ることを択ぶ。安定した場所で寝たいんだね、切ったところが痛むんだね、と胸が張り裂ける思いだった。
     *  
その後体力は回復して年末年始は元気に過ごせたが、年明けすぐに検査結果が出て、やはりがんだと告げられた。ただしまだ初期のステージで、血管に浸潤は見られず、先生の見立てでも、今切ればがんを絶やせる可能性が高いという。
それで、一昨日、手術を受けた。
朝病院に預けて午後に手術を受け、その日は病院に一泊する。チャミのいない家はがらんどうのようで、いつも座っている座布団に残っている窪みを見てため息をつき、そしていつもの日と同じようにドアを少しだけ開けておいたり(別の部屋から私の部屋来た時に、すぐに気づいてあげられるように)、庭に出る時にこっそり足音をひそめたり(僕も出たいと飛んで来るので)、そろそろ水を取り替えてあげなきゃ、と思ってしまったりする。自分の行動のすべてがチャミを前提にしていることに気づかされる。
     *
夕方、一人、吉祥寺に出て夕食を食べた。
とにかくチャミが私にべったりだから、いつもたとえば仕事で難しい取材を終えた日の帰り道など、本当はどこかで軽く食べて気分転換したいのに、結局駅ビルでタイムセールのお弁当など買って猛ダッシュで帰宅する。
だけど今日は何しろチャミがいないのだ。憧れの〝吉祥寺一人晩ご飯〟が出来る。それでわざわざ吹雪いているのに街へ出て行って、好物の「点心茶室」の志那そばを食べてみたりした。そして帰り道に病院の前まで行って、しばらくたたずんでいた。ストーカーさながらにじっと窓を見つめ(幸い雪はもう止んでいた)、本当は、
「チャミちゃーん、お姉ちゃんここにいるよ!頑張ったね!明日必ず迎えに来るからね!」
と呼びかけたいのだけれど、朝、病院に置いていく時に「夜、お外から励ましに来るからね」とぶつぶつ涙目で話しかけているのを先生に聞かれ、
「あ、それは止めた方がいいな。声が聞こえるのにどうして迎えに来てくれないんだろうってパニックになりますから」
と釘を刺されてしまった。どうやら入院の夜に病院の前に来るバカ飼い主は私だけではないらしい。それで、無言で、しばらく窓をじっと見つめる。そして帰宅した家はしんとしていて、失恋した日の夜のようなのだった。
     *
幸い手術は成功して、翌日、昨日の朝、迎えに行った。
前回の手術の時と同様チャミはやはりとても険しい顔つきで、びっこを引きながら家の中を一通り歩き回った後、ここ!とこの季節には過ごさない二階の寝室のソファで眠り始めた。ふだんなら夕方3時を過ぎると、
「お膝乗りしたーい!」
とにゃーにゃー騒いで畳の部屋で私が伸ばして座った足の間にどかっと入って熟睡するのに、呼びに来ることもない。やはり一人で眠りたいようだった。
それでも、時々こっそり様子を見に行くと、必ず目を覚ましてエリザベスカラーから顔を伸ばすようにして手に顔をすりつけて来る。いつものようにおでこにチュッをしてあげるとゴロゴロ喉を鳴らし、食事もよく食べ、水もよく飲んでくれる。明け方には自力で一階まで降りて、立派にトイレもした。階段を上る力は尽きてしまって、無言でじっとたたずんでいるのがたまらなくいじらしい。もちろん抱き上げて一緒に寝室に戻った。
今日の昼間は一階の居間で、いつもの日と同じように日向ぼっこをして眠り、今はまた二階に戻り、一人で眠っている。だいぶおだやかな表情に戻って来ている。
     *
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チャミの左手を見るのはとてもつらい。
うめばちだけではなく小指までまとめて切除したから、手がずいぶん細くなってしまった。今は手術のために毛も剃っているから、ぷくぷくとかわいかった左足はまるでヨーロッパゴシック建築の悪魔の彫刻のような、尖った怖い前足に見える。でも毛はまたすぐ生えて来るし、これであと数年、命が延びたのだ。
「小指一つなくなったって、元気に走り回っている猫ちゃんはいくらでもいますよ」
と先生も言っていた。きっとチャミもすぐ慣れてくれるだろう。

ただし、心配もある。手術前の血液検査で、腎臓の数値が大分悪くなっていることが分かった。これからは療養食に切り替え、自宅での注射もしていかなければいけないのかも知れない。残された時間ももうあまり長くはないのかも知れない。
とにかく、今は私のところに帰って来てくれた。家がいつもの家に戻り、丸くやわらかくふっくらとした何かに満ちている。ドアはいつも細く開けて、庭に出る時は抜き足差し足で。おでことおでこをいっぱいごっつんこして、一日一日を過ごす。お帰り、チャミ。
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新年ご挨拶 2024/01/09



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大変遅くなってしまいましたが、皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年は年頭からつらいニュースが続きますが、被災地以外の場所にいる人間に今出来ることは、寄付。うんじゃらかんじゃらきれいな言葉を並べるヒマがあったら、現金。そう感じています。
もちろん自分の生活に見合った金額で良い訳で、私も微力ではありますが寄付を行おうと思います。そしてもう少し経ったら、能登や周辺地域の特産物を購入したい。美しいもの、美味しいものがいっぱいありますものね。世界に冠たる地震国の我が国は、明日は我が身。こうやって助け合っていくしかないことをまたしみじみと感じる新年となりました。

私事では、昨年は、母を見送った悲しみから立ち直る間もなく、年頭少し後から体調不良が続き、春から初夏にかけて検査、検査の不安な日々を過ごしました。
最終的に子宮体がんが見つかり、6月終わりに手術。歩くのにも苦労するところから少しずつ回復していく‥‥という、ひたすら自分の体と向き合う一年となりました。
現在はだいぶ元気になっていて、一例を挙げれば、12月のはじめに仕事の原稿が〆切目前でどうしても気に入らず、2日間ほとんど眠らず書き直しをしたのですが、特に疲労が残ることなくふだん通りに過ごすことが出来ました。
実はその2ヶ月ほど前の秋の初め、やはり〆切目前で原稿が気に入らず一晩徹夜をした時はとてつもなく疲れてしまい、2日ほどふらふら過ごしたことを思えば、急速に体力が回復しているように思います。

とは言え、ロボット手術のメス跡である五カ所の手術痕周りの皮膚、そしてその深部には、今も姿勢によっては強く痛みが走り、無理は出来ません。早足も小走りも出来るようになりましたが、長く走るのは到底不可能だと感じます。重いものもまだ長時間は持つことが出来ません。
このように体力が回復途上にあるため、今年は大きな目標は立てず、その時その時出来る範囲のことを確実にこなしていこうと思っています。どうか皆様も引き続きお手柔らかにお願い致します。

写真は、7日に東京国立博物館へ、生け花の師である真生流家元 山根由美先生と副家元の奈津子先生のお作を拝見に伺った時のもの。清新で凛としたお花に触れ、また、由美先生と写真を撮って頂き楽しくお話もさせて頂き、何とも楽しい時間となりました。
実は術後初めてのきものでの外出でウキウキだったのですが、この少し後、帰宅途中で絶不調となってしまい‥‥その話は次回に書きたいと思いますが、やはりまだ回復途上。ゆっくりゆっくりと進んで行かなければいけないと実感しています。どうぞ皆様本年もよろしくお願い致します。

クロワッサン「着物の時間」、華道「真生流」副家元 山根奈津子さんの着物物語を取材しました 2023/12/30



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今年最後の投稿は、最新のお仕事のご紹介です。
マガジンハウス「クロワッサン」誌での連載「着物の時間」にて、今月は華道「真生流」副家元 山根奈津子さんの着物物語を取材しました。
実は、真生流は、私が生け花を学んだ流派です(腕が錆びつきまくっていますが一応師範免状も持っております)。大学時代から中学留学へ出る直前の27歳頃まで、家元教場で学んだのですが、その頃、奈津子さんは小学生から中学生へと成長される少女時代。晃華学園のグレーの制服を着て、学校から帰宅すると私たちと並んで稽古に参加していました。小さな手で鋏を持つあどけない〝奈津子ちゃん〟の姿が今も私の目に焼きついています。
そんな奈津子さんがこれほどに美しい女性に成長されて、そして何より、おおらかさと品格をたたえた素晴らしい花を生けられ、家元の由美先生とともに流儀を引っ張っていらっしゃる。作品を拝見するたびにいつも私は胸がいっぱいになってしまい、完全に親戚のおばさんの心情なのですが‥‥。
しかし‥‥取材にはしっかりと臨みました。何しろ山根家は膨大な着物コレクションで知られます。その一部は「婦人画報」「美しいキモノ」誌などでたびたび披露されており、私もいつか取材したいと念願していました。
当日は、生け花と着物には共通点が多いと感じているというお話や、色にまつわるお話を中心に、着物とご自身の関わりを語って頂きました。ぜひご高覧頂けましたら幸いです。
そして、奈津子さんは、1月2日から14日、東京国立博物館「博物館で初もうで」展にて、正面玄関や本館大階段ロビーに由美家元ともに大作を披露されます。ぜひ足を運ばれてみてください。