西端真矢

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母を偲ぶ会(一)会を終えて 2024/03/20



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先々週の日曜日、美術史学界の、特に母と親しかった友人の皆さんが偲ぶ会を開いてくださり、私が家族代表で出席した。
場所は母の気に入りの店の一つだった吉祥寺の聘珍楼で、私は、母が十年ほど前に一目惚れで購入した紬訪問着を着て参加した(きものの詳細は、後日、別の回のブログにて)。

発起人は、東京学芸大学名誉教授で現在は遠山記念館館長の鈴木廣之さんと、母が生前奉職した三井記念美術館主任学芸員の清水実さん。
実践女子大学名誉教授で秋田県立近代美術館館長の仲町啓子さん、国立西洋美術館前館長の馬渕明子さん、先ごろ静嘉堂美術館の新館長に就任されたばかりの安村敏信さん、学習院大学名誉教授の佐野みどりさん、実践女子大学教授の宮崎法子さん、美術ライターの州之内啓子さん、東京国立博物館元研究員の田沢裕賀さん、十文字学園大学教授の樋口一貴さん、清泉女子大学教授の佐々木守俊さんがお集まりくださった。
皆さん、本当は「先生」と呼ばなければならない学界の重鎮や気鋭の研究者の方々ばかりだけれど、私は幼い頃から親しく接して育ったので「さん」で呼んでいる。
     *
さて、当日は、皆さん、母と本当に親しかった方ばかりなので、温かい、気のおけない会になって、それが何とも言えず嬉しかった。
宮崎さんと佐野さん曰く、
「一緒に旅行すると、周子さんはトランクからとにかく荷物をぜーんぶ出しちゃって」
「そうそう。それを部屋中のあちこちの引き出しに分けてしまうのね」
などといった、友だちならではのエピソードがあれこれ語られたり、母はとにかく滅法お酒に強かったため、酒豪伝説エピソードも数々飛び出した。
とある偉い先生が母につぶされ、転んだか何かして眼鏡が壊れてしまった話、論客として有名な若手研究者(当時)が母との飲み比べに挑戦したものの破れ去ったエピソードなどなど‥‥
皆さんが口を揃えておっしゃるのが、「天真爛漫な人だった」‥‥本当に、娘の私から見ても、人を出し抜いたり裏をかこうといったことを思いつきもしない、正直一本槍の母だった。そのために資料の獲得などで損をした面もあったかも知れないけれど、誰からも好かれ、「周子さんといるととにかく楽しかった!」と振り返ってもらえるのだから、やはり良い人生だったのだと思う。
    * 
私からは、会場に、少女時代から始まる母の珠玉の(と私が思う)写真を集めたアルバムを持参した。
たまたま仕事の締め切りと重なったために最後は徹夜で写真を選び、更にカードにキャプションを書いて写真の下に添え、朝、鳥の声を聞きながらもはや頭は朦朧としていたけれど、皆さんに大変好評だったので、頑張った甲斐があった。
下の写真はその第一ページ目。キャプションは、「小原周子、十五歳。初々しい、少女時代の姿です」‥‥
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    *
そして、母の死から一年あまりという時期に行われたこの会が終わり、今、どこか虚脱状態に陥っている自分がいる。
そもそも母はとにかく人と集うことが好きな人だったから、本当はお葬式をするべきだった。
けれど四年間、私のすべてを捧げてかなりかなり壮絶な介護を続け、それが突然に終わってしまった空白の中で洩れることなく友人知人の方々に連絡をして葬儀を準備し、当日はご参列頂きありがとうございました、ありがとうございましたと頭を下げ続ける気力が、あの時、私の中に一滴も残っていなかった。
もちろん、当時はまだコロナ禍も完全に収束していなかったから、うちのお葬式から感染者を出すようなことがあってはいけないという考えもあって、それで密葬にしようと父と決めたのだけれど、これで良かったのかという思いはずっと胸に引っかかっていた。
社交的だった母のことを考えれば、あまりにも寂し過ぎたから。

だから、鈴木さんと清水さんが話し合って下さり、会を持ちたいと申し出て下さった時、本当に嬉しかった。
実は私は二月の頭ほどから手術の後遺症が出て体調がすぐれず、けれど、どうしてもどうしても偲ぶ会に出るんだ!という思いで(家族代表の私が出席しなければ会は流れてしまう)、食事をコントロールし、重いものは一切持たず、長い時間も歩かず、とにかく体調に気をつけて気をつけて過ごしていた。そしてアルバムを作り、出席頂く皆様へどんな記念品をお渡ししようかとあれこれ知恵を絞って準備を進めていた(記念品については、後日のブログで)。華やかな、楽しいことが好きだった母のために最後に私が出来ることだった。
      *
だから、今、会が終わり、もう一度母を亡くしてしまったようなむなしさの中にいる。
もう本当に私の介護は終わり、もっともっと母のために何かをしてあげたいけれど、出来ることはもう何もないのだ、と、夜、一人で部屋にいる時など、しみじみと悲しくなる。
けれど、一方で、今回皆様に集まって頂いたことで、どこかほのかな明るさが胸に宿ったことも感じている。それはやはり、母が本当に盟友と思っていた皆様にとても楽しく送り出してもらえた、そのことを実感したからだと思う。

人が一人亡くなった時、家族がその代理人のようになって、お悔やみを受け、生前はありがとうございましたなどと言う。それが昔から変わらない世の中の常だが、私はこの一年あまり、どこかおこがましさを感じていた。
何故ならば人は家族の中だけで生きている訳ではないし、家族だけのものでもないと思うからだ。家族にだからこそ言えないこともあるし、仕事や趣味の仲間とは、同じフィールドにいる者同士だけが分かち合える達成感や苦心がある。世の中には家族がすべてという人もいるかも知れないが、別にそれが最高の幸せである訳でもない、と私は思っている。人は本来もっと多面的な可能性を持つ存在だと思う。
だから、心から母を愛した私だけれど、今回、盟友だった方々がわいわいと母を振り返っている姿を見て、深く安堵する思いがあった。四年間、認知症という特殊な状況だったためにやむなく私が母を独占して来たけれど、やっと本来の母に戻って、仲間たちと陽気に楽しみ、そしてお別れをした。そんな気がしたのだ。
これでようやく母は本当に旅立って行った気がする。もう一度母に会いたい。どうして母はここにいないのだろう。その思いは変わらないけれど、これからは私も自分の人生を再び構築していかなければいけないのだ、と思い始めている。母のために出来ることは、もう本当に何もない。むなしさと不思議なすがすがしさがそこには同時に満ちている。